大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのか|安藤政信が演じる幸村と大坂五人衆 ─ 増田修一朗が演じる後藤又兵衛ら浪人大将の経歴と最期|ドラマ『真田十勇士』第2話予習

大坂城の広間で絵図を囲んで軍議をする浪人の大将たちのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 大坂五人衆とは、大坂の陣で豊臣方の主力となった浪人の大将5人のことです。真田信繁(幸村)、後藤又兵衛(基次)、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登(掃部)を指すのが一般的です
  • 5人はいずれも関ヶ原の戦いのあとに主家や領地を失った人びとで、豊臣家の呼びかけに応じて大坂城に入りました。全国から集まった浪人は、合わせて十万人ほどにのぼったといわれます
  • 冬の陣の軍議では、信繁や又兵衛が城を出て戦う策を唱えましたが、豊臣家の重臣・大野治長らの籠城策が通りました。浪人衆は大きな兵を率いながらも、豊臣家の家臣ではないという立場の弱さを抱えていました
  • 夏の陣では、又兵衛が道明寺で、信繁が天王寺口で討死し、盛親は捕らえられて処刑、勝永は秀頼のそばで最期を迎え、全登は行方知れずになりました
  • ドラマ『真田十勇士』では、後藤又兵衛を増田修一朗さんが演じます。九度山を出た幸村(安藤政信さん)が大坂城でどんな仲間と出会うのかが、第2話以降の見どころです

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話は、幸村(安藤政信さん)が「ここを出て、家康を討とう」と決意するところで終わりました。次回は九度山からの脱出が描かれ、幸村はいよいよ豊臣家の待つ大坂城へ向かうことになりそうです。その大坂城で幸村を待っていたのが、全国から集まった浪人たちと、のちに「大坂五人衆」と呼ばれる大将たちでした。この記事では、五人衆とはどんな人びとだったのか、なぜ大坂城に集まり、どんな最期を迎えたのかをたどります。

この記事は浪人たちがなぜ大坂城に集まり、豊臣家の中でどんな立場に置かれたのかを中心に見ていきます。豊臣方・徳川方の武将を一覧で確かめたい方は、姉妹サイト「日本の戦国武将図鑑」の大坂の陣の武将一覧や毛利勝永もあわせてどうぞ。

目次

大坂五人衆とは

大坂五人衆とは、慶長19年(1614)から翌年にかけての大坂の陣で、豊臣方の浪人衆を率いた5人の大将を指す呼び名です。真田信繁(幸村)、後藤又兵衛(基次)、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登(掃部)の5人を挙げるのが一般的で、浪人の中でも特に大きな兵を預かり、豊臣家の戦いを支えました。「五人衆」という言い方は後の時代の軍記などで広まったもので、数え方には違いもあります(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

人物 もとの身分 大坂の陣での最期
真田信繁(幸村) 真田昌幸の次男。関ヶ原のあと九度山に流される 夏の陣、天王寺口の戦いで家康の本陣に突撃し、討死
後藤又兵衛(基次) 黒田家の重臣。主君の黒田長政と対立して出奔 夏の陣、道明寺の戦いで討死
長宗我部盛親 土佐の大名。関ヶ原で西軍につき領地を失う 夏の陣、八尾の戦いで藤堂高虎と戦う。落城後に捕らえられ処刑
毛利勝永 豊前小倉の大名の子。関ヶ原のあと土佐の山内家に預けられる 夏の陣、天王寺口で奮戦。落城の日に秀頼のそばで最期を迎えたとされる
明石全登(掃部) 宇喜多秀家の重臣。キリシタンとして知られる 夏の陣のあと行方知れず。生き延びたという話も伝わる

なぜ浪人たちは大坂城に集まったのか

慶長19年、方広寺の鐘銘をめぐって徳川との仲が決裂すると、豊臣家は戦の準備のため、全国の浪人に大坂城へ入るよう呼びかけました(方広寺鐘銘事件とは)。関ヶ原の戦いのあと、西軍についた大名の多くが領地を取り上げられ、その家臣たちも主を失って浪人となっていました。豊臣家には秀吉が残した莫大な金銀があり、それを元手に兵を集めることができたのです。

呼びかけに応じた浪人は、合わせて十万人ほどになったといわれます。その中には、徳川の世で居場所をなくした者、もう一度大名に返り咲くことを願う者、豊臣家への恩を返そうとする者、キリシタンの信仰を守りたい者など、さまざまな思いの人びとがいました。九度山にいた信繁も、豊臣家からの誘いを受けて九度山を抜け出し、大坂城に入っています(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。

大坂城の石垣普請のイメージイラスト
秀吉が築いた大坂城(イメージ)。秀吉の遺した金銀が、浪人を集める元手になった

五人衆それぞれの経歴

後藤又兵衛(基次)は、黒田官兵衛・長政父子に仕えた歴戦の武将で、槍の名手として知られました。関ヶ原でも活躍し、黒田家で大きな城を任されるほどでしたが、主君の長政と仲が悪くなり、一族を連れて黒田家を出奔します。長政は他の大名が又兵衛を召し抱えないよう手を回したため、又兵衛は仕官先を見つけられないまま浪人として暮らしていました(出奔とは)。

長宗我部盛親は、四国の覇者・長宗我部元親の四男で、土佐一国を治める大名でした。関ヶ原で西軍についたため領地を取り上げられ、京都で寺子屋の師匠のような暮らしをしていたと伝わります。大坂の陣では、もう一度土佐の大名に戻ることを願って大坂城に入りました(長宗我部氏はどうなったのか)。

毛利勝永は、秀吉に仕えた豊前小倉の大名・毛利勝信の子です。中国地方の毛利家とは別の家です。関ヶ原で西軍についたため父とともに土佐の山内家に預けられていましたが、大坂の陣が始まると土佐を抜け出し、大坂城に入りました。明石全登(掃部)は、関ヶ原で西軍の主力となった宇喜多秀家の重臣で、熱心なキリシタンでした。大坂城にはキリシタンの浪人も多く集まり、全登はその中心の一人だったとされます。

冬の陣の軍議 ─ 打って出るか、籠もるか

浪人たちが集まった大坂城では、徳川の大軍をどう迎え撃つかをめぐって軍議が開かれました。信繁や又兵衛は、城を出て京都や近江の瀬田あたりまで兵を進め、徳川方の大軍が集まりきる前にたたくべきだと唱えたと伝わります。けれども、豊臣家の重臣・大野治長らは、難攻不落の大坂城に籠もって戦う策をとり、浪人衆の意見は退けられました。

大坂城の広間で絵図を囲んで軍議をする浪人の大将たちのイメージ(イラスト)
大坂城の軍議で、打って出る策を唱える浪人の大将たち(イメージ)

浪人たちは大きな兵を率いてはいても、もとは豊臣家の家臣ではなく、戦のために雇われた立場でした。秀頼の母の淀殿と、そのそばに仕える大野治長らが豊臣家の方針を決めていて、浪人の大将たちが思うように戦えたわけではありません(淀殿はなぜ豊臣家を仕切れたのか)。それでも信繁は、城の南に出城の真田丸を築き、冬の陣で徳川方に大きな損害を与えています(真田丸とは)。

▽ よく語られる話
大坂城の五人衆は固い絆で結ばれ、真田幸村を総大将として一つにまとまって徳川と戦った。
▼ 史実ではこうです
豊臣方の総大将は秀頼で、方針を決めていたのは淀殿や大野治長ら豊臣家の重臣たちでした。五人衆はそれぞれが自分の兵を率いる浪人の大将で、信繁が全体を指揮したわけではありません。浪人どうしの意見が分かれたり、豊臣家の重臣とぶつかったりすることもあったと伝わります。「五人衆」という呼び方も、後の時代の軍記などで広まったものです。

夏の陣 ─ 五人衆の最期

冬の陣のあと、和議の条件として大坂城の堀が埋められ、城は裸同然になりました。慶長20年(1615)の夏の陣では、豊臣方は城を出て戦うしかなくなります。5月6日、後藤又兵衛は大和から攻め寄せる徳川方を道明寺で迎え撃ちましたが、味方の到着が遅れる中で奮戦し、討死しました。同じ日、長宗我部盛親は八尾で藤堂高虎の軍を打ち破りましたが、井伊直孝の軍に押されて退きます。

翌5月7日、天王寺口の戦いで、信繁は家康の本陣に突撃し、家康をあと一歩のところまで追いつめたのち、討死しました。毛利勝永もこの日、徳川方の本多忠朝らを討つ目覚ましい働きを見せています。大坂城が落ちた5月8日、勝永は秀頼のそばで最期を迎えたとされます。盛親は城を落ちのびたものの捕らえられ、京都の六条河原で処刑されました。明石全登は戦場から姿を消し、その後の行方はわかっていません(家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのか)。

ドラマ『真田十勇士』と大坂城の人びと

ドラマでは、後藤又兵衛を増田修一朗さんが演じるほか、豊臣方として淀殿を栗山千明さん、大野治長を和田正人さん、織田有楽斎を西岡徳馬さん、大蔵卿局を阿知波悟美さんが演じます(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。九度山を出た幸村と十勇士は、大坂城でこうした人びとと出会い、豊臣家の重臣たちとの駆け引きや、浪人の大将たちとの関わりの中で、家康との戦いに挑んでいくことになりそうです。

史実では、信繁は大坂城に入ったとき、まだ世に名の知られた武将ではありませんでした。又兵衛や盛親のような名の通った浪人たちと肩を並べ、真田丸の戦いで一気に名を上げていきます(真田信繁はなぜ「幸村」と呼ばれるのか)。ドラマの幸村が大坂城でどう迎えられるのかにも注目です。

よくある疑問

Q. 大坂五人衆とは誰ですか?
A. 真田信繁(幸村)、後藤又兵衛(基次)、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登(掃部)の5人を指すのが一般的です。大坂の陣で豊臣方の浪人衆を率いた大将たちです。

Q. 大坂城にはどれくらいの浪人が集まったのですか?
A. 合わせて十万人ほどといわれます。関ヶ原のあとに主家や領地を失った武士たちが、豊臣家の呼びかけに応じて集まりました。

Q. 五人衆の中で生き残った人はいますか?
A. 信繁と又兵衛は討死、盛親は処刑、勝永は落城の日に最期を迎えたとされます。明石全登だけは行方がわからず、生き延びて各地に逃れたという話も伝わります。

Q. ドラマで後藤又兵衛を演じるのは誰ですか?
A. 増田修一朗さんです。

まとめ

大坂五人衆は、関ヶ原のあとに居場所を失い、豊臣家の呼びかけに応じて大坂城に集まった浪人の大将たちでした。打って出る策を退けられ、豊臣家の重臣たちとのあいだで思うように戦えない立場にありながら、冬の陣では真田丸で、夏の陣では道明寺や天王寺口で、徳川の大軍を相手に最後まで戦い抜きました。九度山を出た幸村が向かう大坂城には、そうした男たちが待っていたのです。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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