- 九度山(くどやま)は、いまの和歌山県伊都郡九度山町にあたる、高野山の北のふもとの里です。紀の川の南岸にあり、高野山へのぼる表参道の入口にあたります
- 地名は、弘法大師空海が、ふもとの慈尊院に住む母を月に九度も訪ねたことに由来すると伝わります。女人禁制の高野山にのぼれない女性たちのための寺として、慈尊院は「女人高野」と呼ばれました
- 関ヶ原のあと、真田昌幸と信繁(幸村)はこの地に流され、十四年を過ごしました。昌幸はここで亡くなり、信繁はここから大坂城へ向かいます
- いまも真田庵(善名称院)や「真田の抜け穴」と呼ばれる真田古墳、九度山・真田ミュージアムなどが残り、ドラマ『真田十勇士』第1話の舞台にもなっています
10月23日(金)から始まるドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、岩本照さん演じる猿飛佐助が、師の白雲斎の「九度山へ向かえ」という言葉を胸に、安藤政信さん演じる真田幸村のもとを目指します。物語の出発点となる九度山とは、どんな土地なのでしょうか。この記事では、九度山の場所と地名の由来、真田父子が暮らした十四年、そしていまも残る真田ゆかりの地を紹介します。
九度山はどこにあるのか
九度山は、和歌山県の北東部、伊都郡九度山町にあたります。紀の川が東から西へ流れる谷の南側にあり、そこから南へ山道をのぼっていくと、弘法大師空海が開いた真言密教の聖地・高野山に着きます。高野山の北のふもとにあり、参詣する人びとが山へ入る前に通る、門前の里という位置づけでした。大阪の南からは南海高野線が通っており、いまは九度山駅が町の玄関口になっています。
「九度山」という地名の由来と、女人高野・慈尊院
九度山という名前は、弘法大師空海の母にまつわる伝承に由来するといわれます。空海が高野山を開いたころ、讃岐から息子を訪ねてきた母は、女人禁制の高野山にのぼることができず、ふもとの慈尊院に住んで、そこで亡くなったと伝わります。空海は月に九度ほども山を下りて母を訪ねたといい、これが「九度山」の名のもとになったとされます。
こうした由来から、慈尊院は女性がお参りできる高野山として「女人高野」と呼ばれるようになり、本尊の弥勒菩薩は空海の母の化身として信仰されてきました。慈尊院から高野山の奥の院までは、一町(約109メートル)ごとに石の道しるべ(町石)を立てた参詣道「高野山町石道」が約24キロにわたって続き、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部になっています。
真田父子はなぜ九度山にいたのか
関ヶ原の戦いで豊臣方(西軍)についた真田昌幸と信繁は、いったん死罪を言い渡されましたが、徳川方についた信之らの嘆願で命を救われ、高野山での蟄居を命じられました(真田昌幸と幸村はなぜ命を救われたのか)。父子ははじめ高野山のふもとの細川に置かれ、まもなく九度山に移ります。女人禁制の高野山では信繁の妻子と暮らせなかったことや、山上の冬の寒さが理由と考えられています(真田昌幸と幸村はなぜ九度山に流されたのか)。
九度山では父子がそれぞれ屋敷を構え、家族やわずかな家臣とともに暮らしましたが、収入はなく、兄の信之からの仕送りなどに頼る苦しい生活でした。昌幸は慶長16年(1611)にこの地で亡くなり、信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて九度山を抜け出し、大坂城へ向かいます。九度山は、真田父子にとって十四年を耐えた場所であり、信繁にとっては最後の戦いへ踏み出した出発点でもあったのです(真田幸村(信繁)とは何者か)。
いまも残る真田ゆかりの地
| ゆかりの地 | どんな場所か |
|---|---|
| 真田庵(善名称院) | 真田父子の屋敷跡と伝わる場所に、江戸時代の中ごろ建てられた寺。境内に昌幸の墓所と伝わる宝篋印塔がある |
| 真田古墳(真田の抜け穴) | 信繁が大坂城へ抜けた地下道の入口と伝わる穴。調べたところ、古墳時代の円墳の石室だった |
| 九度山・真田ミュージアム | 昌幸・信繁・大助の真田三代を紹介する町の資料館 |
| 慈尊院 | 弘法大師空海の母が暮らしたと伝わる「女人高野」。九度山という地名の由来とも結びつく |
| 高野山町石道 | 慈尊院から高野山の奥の院へ続く、約24キロの参詣道。世界遺産の一部 |
真田庵(善名称院)は、真田父子の屋敷があったと伝わる場所に、寛保元年(1741)に建てられた寺です。境内には昌幸の墓所と伝わる石塔があり、町の人びとが真田父子をしのんできた場所になっています。真田庵の東には、信繁が大坂城まで掘らせた抜け穴の入口だと語られてきた「真田の抜け穴」がありますが、昭和28年(1953)の調査で、古墳時代の円墳の石室だったことがわかりました。天井の石が失われて内部が地下の穴のように見えたことから、抜け穴の伝説が生まれたと考えられています。
九度山と真田紐
九度山には、真田父子が暮らしの足しにするため、丈夫な平たい組紐を作って売り歩かせたという話も伝わり、この紐は「真田紐」と呼ばれています。家臣たちが紐を売りながら諸国をめぐり、各地の様子を探っていた、という話もあって、十勇士の物語の「諸国をめぐって徳川方の動きを探る」という筋立てとも重なります。ただし、真田紐の名の由来には別の説もあり、真田父子が作らせたという話は伝承の域を出ません。
ドラマ『真田十勇士』と九度山
ドラマでは、関ヶ原から14年後、九度山に幽閉された幸村(安藤政信さん)が、霧隠才蔵(中川大志さん)ら真田家に忠義を誓う忍たちとともに、ひっそりと暮らしています。そこへ主を持たない忍・猿飛佐助が加わり、豊臣討伐を宣言した家康に立ち向かうため、幸村は九度山からの脱出を決意する、という流れです。史実の信繁が九度山を出たのも、ちょうど同じ慶長19年(1614)でした(真田十勇士とは ─ 猿飛佐助・霧隠才蔵ら10人は実在した?)。
よくある疑問
Q. 九度山はどこにありますか?
A. 和歌山県伊都郡九度山町にあたる、高野山の北のふもとの里です。紀の川の南岸にあり、高野山へのぼる参詣道の入口にあたります。
Q. 九度山という名前の由来は何ですか?
A. 弘法大師空海が、ふもとの慈尊院に住む母を月に九度ほど訪ねたことに由来すると伝わります。
Q. 真田幸村は九度山に何年いましたか?
A. 慶長5年(1600)の暮れから慶長19年(1614)まで、およそ十四年です。
Q. 真田の抜け穴は本当に大坂城につながっていたのですか?
A. つながっていません。昭和28年(1953)の調査で、古墳時代の円墳の石室だったことがわかっています。
Q. ドラマの第1話の舞台は九度山ですか?
A. 公表されているあらすじでは、九度山に幽閉されている幸村のもとへ、猿飛佐助が向かうところから物語が動き出します。
まとめ
九度山は、弘法大師空海が母を訪ねた伝承に名を残す、高野山のふもとの里です。関ヶ原のあと、真田昌幸と信繁はこの地に流されて十四年を過ごし、昌幸はここで亡くなり、信繁はここから大坂城へ向かいました。真田庵や真田の抜け穴といった伝承の地をたどると、ドラマの第1話で佐助が目指す九度山の姿が、より身近に感じられるはずです。
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