秀吉の甥とねねの甥を関係図で整理:姉ともの子(秀次・秀勝・秀保)と、ねねの兄・木下家定の八人の息子

秀吉の姉・ともの子(秀次・秀勝・秀保)と、ねねの兄・木下家定の八人の息子(勝俊・利房・延俊・俊定・小早川秀秋・俊忠・秀規・周南紹叔)の関係図
この記事のポイント
  • 秀吉の「甥」には二つの系統があります。秀吉の姉・ともの子(秀次・秀勝・秀保)は秀吉と血のつながった甥、ねねの兄・木下家定の子は「ねねの甥」で、秀吉とは血がつながりません
  • ともの子は三兄弟。長男・秀次と次男・秀勝は秀吉の養子に、三男・秀保は秀長の養子になりましたが、三人とも文禄4年(1595)までに亡くなりました
  • 家定の息子は八人と伝わります(数え方で七人とする資料もあります)。五男が小早川秀秋で、幼いころに秀吉の養子になりました
  • 秀秋は「ともの子」ではありません。秀吉の養子になったため、秀次・秀勝と並べて語られやすく、取り違えが起きやすい人物です
  • 関ヶ原の時、ともの子は一人も生きておらず、家定の子は東軍と西軍に分かれました。豊臣家を一族で支える体制は、ついにできませんでした

大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていると、秀吉の「甥」が何人も出てきます。三好信吉(のちの豊臣秀次)、秀勝、秀保、そして小早川秀秋。ところがこの四人は、同じきょうだいではありません。前の三人は秀吉の姉・ともの子、秀秋はねねの兄・木下家定の子です。この記事では、関係図を使って二つの「甥」の系統を整理し、それぞれがどうなったのかをたどります。

目次

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関係図:ともの子と、木下家定の子

秀吉の姉・ともの子(秀次・秀勝・秀保)と、ねねの兄・木下家定の八人の息子の関係図
秀吉の姉・ともの子と、ねねの兄・木下家定の子の関係図(画像をタップすると拡大できます)

図の左の青い枠が、秀吉の姉・ともの子です。秀吉から見ると血のつながった甥になります。右の黄色い枠が、ねねの兄・木下家定の子です。こちらは「ねねの甥」で、秀吉とは血がつながっていません。秀吉は義理の叔父にあたります。

まず結論:誰が誰の子なのか

人物 親 秀吉から見て その後
豊臣秀次(三好信吉) とも・三好吉房 甥(血縁あり) 秀吉の養子。関白になるが切腹
豊臣秀勝(小吉) とも・三好吉房 甥(血縁あり) 秀吉の養子。朝鮮の陣中で病死
豊臣秀保 とも・三好吉房 甥(血縁あり) 秀長の養子。17歳で急死
小早川秀秋 木下家定 妻ねねの甥(血縁なし) 秀吉の養子をへて小早川家へ
木下勝俊・利房・延俊ほか 木下家定 妻ねねの甥(血縁なし) 関ヶ原で東西に分かれる

ともの子:秀吉の甥の三兄弟

ともは秀吉と秀長の姉で、尾張の村で弥助という男に嫁ぎました。夫はのちに三好吉房と名のります。二人のあいだに生まれたのが、秀次・秀勝・秀保の三兄弟です。子のいない秀吉にとって、姉の息子たちは数少ない血のつながった身内でした。

名前 生没年 その後
長男 豊臣秀次 1568〜1595 宮部家・三好家の養子をへて秀吉の養子に。関白になるが、文禄4年に切腹
次男 豊臣秀勝(小吉) 1569〜1592 秀吉の養子。岐阜城主となり、朝鮮出兵の陣中で病死
三男 豊臣秀保 1579〜1595 秀長の養子として大和豊臣家を継ぐ。文禄4年に17歳で急死

三人はわずか四年ほどのあいだに相次いで亡くなり、母のともは三人の息子すべてに先立たれました。くわしくは三好信吉(豊臣秀次)の兄弟はどうなったのかで書いています。

木下家定の子:ねねの甥の八人

木下家定はねねの兄です。ねねの実家・杉原家の人で、秀吉の縁で木下の姓を名のり、姫路城主をへて関ヶ原の戦いのあとは備中足守(いまの岡山市北区)の大名になりました。家定には八人の息子がいたと伝わり、娘もいました。

名前 生没年 その後
長男 木下勝俊 1569〜1649 若狭小浜城主。関ヶ原の前に伏見城を去って改易。歌人・木下長嘯子として名を残す
次男 木下利房 1573〜1637 西軍について改易。大坂の陣で徳川方として働き、足守藩を継ぐ
三男 木下延俊 1577〜1642 東軍について豊後日出藩三万石の初代藩主に
四男 木下俊定 ?〜1602 西軍で大津城を攻め、改易
五男 小早川秀秋 1582〜1602 秀吉の養子をへて小早川家へ。関ヶ原で東軍に寝返る
六男 木下俊忠 1583〜1665 秀吉・秀頼に仕え、のち豊前中津で文人として暮らす
七男 木下秀規 ?〜1615 大坂の陣で豊臣方に加わる
八男 周南紹叔 ?〜1633 僧になる

次男・利房の足守藩と三男・延俊の日出藩は幕末まで続き、明治にはともに子爵になりました。一人ずつの経歴は木下一族一覧に、ねねの実家の成り立ちはねねはどこの家の生まれかにまとめています。

なぜ取り違えやすいのか

ともの子と家定の子が混ざってしまうのには、理由が三つあります。

一つめは、秀秋も秀吉の養子だったことです。秀秋は幼いころに秀吉の養子となり、ねねのもとで育ちました。はじめは木下秀俊、のちに羽柴秀俊と名のり、秀次や秀勝と同じく「秀吉の跡継ぎ候補」の一人でした。そのため養子たちを並べると、秀次・秀勝・秀秋が一列に見えてしまいます(三好信吉(豊臣秀次)と秀吉の養子たち)。

二つめは、「秀勝」が二人いることです。ともの次男・秀勝(小吉)のほかに、信長の四男・於次秀勝(おつぎひでかつ)も秀吉の養子でした。於次秀勝が若くして亡くなったあと、その名を継ぐように小吉が「秀勝」を名のったため、二人はよく混同されます。

三つめは、秀秋も「秀吉の甥」と書かれることがあることです。妻の兄の子なので、義理の甥ではあります。ただ血のつながりはありません。「秀吉の甥」とだけ書くと、ともの子と同じ系統に見えてしまいます。

よく語られる話

秀吉の甥は秀次・秀秋・秀保の三兄弟で、みな姉ともの子だった。

史実ではこうです

ともの子は秀次・秀勝・秀保の三兄弟です。小早川秀秋はねねの兄・木下家定の五男で、ともとは関係がありません。

関ヶ原の時、二つの一族はどうなっていたか

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時点で、ともの三兄弟はすでに一人も生きていませんでした。秀勝は朝鮮の陣中で病死し、秀保は急死し、秀次は秀吉自身の命で切腹させられ、その妻子も処刑されています。秀吉と血のつながった甥の家は、秀吉の存命中にほぼ消えていたのです。

一方、家定の息子たちは生き残っていましたが、まとまりませんでした。長男・勝俊は伏見城を去り、次男・利房と四男・俊定は西軍、三男・延俊は東軍につき、五男・秀秋は西軍から東軍へ寝返りました。父の家定は、どちらにもつかずねねの身辺を守ったと伝わります。秀秋の決断については小早川秀秋はなぜ裏切ったのかで書いています。

筆者の考え ─ 一族で秀頼を支えていれば

こうして並べてみると、秀吉のまわりには、ともの三兄弟と家定の八人、合わせて十人を超える甥がいました。「豊臣家は身内が少なかった」と言われますが、少なかったというより、身内を生かしきれなかったのではないでしょうか(秀吉はなぜ44歳の妹・旭姫を嫁に出すしかなかったのか)。

この親族を大事にして、一族みんなで秀頼を支える体制を作れていれば、秀吉の政権はもっと安定していたはずです。ところが秀吉は秀次事件で血のつながった甥の家を自ら断ち、秀秋も小早川家へ出しました。そして秀吉の死後は、尾張以来の子飼いの武将たちと、近江出身の奉行たちの確執が深まり、豊臣家は内側から割れていきます。結局すべてがうまくいかなくなったのは、ここからだったように思えます。

なお、尾張出身の武将と近江出身の奉行という「二派の対立」の図式については、近年の研究で単純化しすぎではないかという見方もあります。七将が石田三成を襲った事件なども、家康の働きかけや一人ひとりの利害がからんでおり、出身地だけで陣営が分かれたわけではありません。家定の息子たちが東西に分かれたことも、同じ一族でもそれぞれの立場で道を選んだことを示しています。

よくある疑問

Q. 小早川秀秋は秀吉の姉・ともの子ですか?
A. いいえ。秀秋はねねの兄・木下家定の五男です。秀吉の養子になったため、ともの子と並べて語られることがあります。

Q. ともの子は何人ですか?
A. 秀次・秀勝・秀保の三人の男子です。秀勝の娘・完子などを通じて、ともの血はのちの世に続いたとされます。

Q. 木下家定の子は何人ですか?
A. 息子は八人と伝わります。資料によっては七人とするものもあり、ほかに娘もいました。

Q. 秀吉の養子になった甥は誰ですか?
A. ともの子の秀次と秀勝、家定の子の秀秋です。ともの三男・秀保は、秀吉ではなく弟の秀長の養子になりました。

参考:菊地浩之「愛子さまは豊臣家の子孫である」(PRESIDENT WOMAN Online)、岡山市「木下家定、足守に移る。なぜ?」、『国史大辞典』「小早川秀秋」ほか

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