豊臣秀吉と徳川家康の違い|出自・性格・家臣団・天下の取り方を比較 ─ 関白と征夷大将軍、17年と260年

豊國神社の豊臣秀吉像

豊臣秀吉と徳川家康は、どちらも天下を取った人物ですが、生まれも性格も天下の取り方もまったく違いました。ひと言でいえば、秀吉は尾張の農民の子から一代で駆け上がり、朝廷の権威(関白)で天下をまとめた人、家康は三河の大名の家に生まれ、譜代の家臣団と長い忍耐で武家の政権(幕府)を開いた人です。天正14年(1586)、この二人が大坂城で向き合い、家康は秀吉に頭を下げました。この記事では、二人の違いを出自・性格・家臣団・天下の取り方・死後の6つの面から比べます。

この記事のポイント
  • 秀吉は農民(足軽)の子、家康は三河の大名・松平家の跡取り。年は秀吉が5つ上
  • 秀吉は子飼いと新参の家臣で天下を取り、家康は三河以来の譜代の家臣団に支えられた
  • 秀吉は関白・太政大臣という朝廷の位で、家康は征夷大将軍として幕府を開いて天下を治めた
  • 秀吉の実子は2人だけ、家康は16人。子どもの数の差が、豊臣家は死後17年で滅び、徳川家はおよそ260年続いた分かれ目になった
目次

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秀吉と家康の違い ─ 一覧で比べる

まず二人の違いを表にまとめます。年齢の差については徳川家康は秀吉・秀長と何歳ちがうのかでくわしく書いています。

豊臣秀吉 徳川家康
生まれ 天文6年(1537)、尾張中村 天文11年(1542)、三河岡崎
家柄 農民(足軽)の子 三河の国衆・松平家の跡取り
若いころ 信長に仕えて足軽から出世 今川・織田で人質として育つ
家臣団 子飼いの若者と、降った大名・新参の家臣 三河以来の譜代の家臣団
天下の取り方 信長の後継争いに勝ち、関白・太政大臣に 関ヶ原に勝ち、征夷大将軍に
政権の形 朝廷の権威を使った関白政権 武家の政権(江戸幕府)
跡継ぎ 53歳で鶴松を得るが幼くして亡くし、57歳で秀頼が生まれる 11男5女。御三家を作る
亡くなった年 慶長3年(1598)、62歳、伏見城 元和2年(1616)、75歳、駿府城
家のその後 死後17年、大坂の陣で滅ぶ およそ260年、江戸幕府が続く

出自 ─ 農民の子と、大名の跡取り

秀吉は尾張中村の、農民あるいは足軽の家に生まれました。父の素性すらはっきりしない家です。秀吉と秀長の出自については豊臣秀長と秀吉の出自で書いています。一方の家康は、三河の国衆・松平家の当主の子として生まれました。小さいながらも代々の家臣を持つ家の跡取りです。

ただ、若いころの苦労はどちらにもありました。秀吉は信長の草履取りから始めたと伝わり、家康は6歳から19歳まで織田と今川の人質として育ちました。母と3歳で別れたことも含め、家康の少年時代は於大の方とはでも触れています。

性格 ─ 華やかな秀吉、地味な家康

秀吉は人の心をつかむのがうまく、敵だった者も味方に引き込みました。黄金の茶室や北野大茶湯のように、派手な演出で権威を見せることも好みました(秀吉の黄金の茶室とは)。

家康は慎重で、倹約を重んじたと伝わります。勝てない戦はできるだけ避け、待つべきときは待ちました。小牧・長久手で秀吉と引き分けたあとも、母を人質に出させるまで上洛しなかった粘り強さは、家康らしいといえます(家康の我慢強さはどこから来たのか)。

▽ よく語られる話
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」は秀吉、「鳴くまで待とうホトトギス」は家康が詠んだ句である。
▼ 史実ではこうです
この三つのホトトギスの句は、江戸時代の随筆などで、信長・秀吉・家康の性格をたとえて紹介されたものです。本人たちが詠んだものではありません。ただ、二人の性格の違いを言い当てたたとえとして広く親しまれています。

家臣団 ─ 子飼いの秀吉、譜代の家康

秀吉には、代々仕えてきた譜代の家臣がいませんでした。弟の秀長、加藤清正や福島正則のような子飼いの若者、石田三成のような才のある者、そして戦って降した大名たちを取りまとめて、天下を治めました。石川数正のように、他家の重臣を引き抜くこともしています(秀吉が引き抜いた・引き抜こうとした武将たち)。

家康の浜松城本丸跡の石柱。家康は三河以来の家臣団とともに領国を広げた
家康の浜松城本丸跡の石柱。家康は三河以来の家臣団とともに領国を広げた

家康には、酒井忠次や本多忠勝のような三河以来の家臣団がいました。一向一揆で背いた者も許して迎え入れ、家臣団を一つにまとめていきました(徳川十六神将とは、本多正信はなぜ家康の右腕になれたのか)。この厚い家臣団が、秀吉の死後に家康が天下を取る力になりました。

天下の取り方 ─ 関白と征夷大将軍

秀吉は武士の家柄ではなかったため、征夷大将軍ではなく、朝廷の最高位である関白を選びました。天皇の権威のもとで大名たちに停戦を命じ、従わない者を攻める形で天下をまとめました(秀吉はなぜ関白になったのか)。

家康は秀吉のもとで官位を上げ、秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝って征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。朝廷の権威を借りつつも、政治の中心を武家の手に置いたのです。家康の官位の移り変わりは徳川家康の官位の移り変わりで年表にしています。

子どもの数が、政権の寿命を分けた

二人の違いでいちばん大きかったのは、子どもの数かもしれません。秀吉の実子として確かなのは、鶴松と秀頼の二人だけです。鶴松は3歳で亡くなり、秀頼が生まれたとき秀吉はすでに57歳でした。一方の家康には11男5女、16人の子がいました(徳川家康の子ども一覧)。

豊臣秀吉 徳川家康
実子 鶴松(3歳で死去)・秀頼の2人 11男5女の16人
頼れた身内 弟の秀長(天正19年に死去)、甥の秀次(文禄4年に切腹) 秀忠・秀康・忠吉・忠輝ら成人した息子たち
身内の配置 養子や甥に頼るしかなかった 息子を越前・尾張・越後などの要地に置き、晩年の3人は御三家に
娘の縁組 実の娘はいない 娘や養女を池田・蒲生、さらに福島・加藤・黒田など豊臣恩顧の大名にも嫁がせた
亡くなったときの跡継ぎ 6歳の秀頼 すでに2代将軍の秀忠(38歳)

秀吉は身内が少なかったため、甥の秀次を養子にして関白を譲りました。ところが秀頼が生まれると秀次を切腹に追いこみ、その一族まで処刑してしまいます(秀次事件をわかりやすく解説)。頼れる大人の身内は、弟の秀長が亡くなったあと、ほとんどいなくなりました。家康の次男・秀康を養子にしながら、のちに結城家へ出したのも、実子が生まれたからです(於義丸(おぎまる)とは)。

家康は逆に、息子たちを国の要に置き、娘や養女を有力な大名に嫁がせて、徳川の身内で天下を網の目のように包みました。秀吉が亡くなったとき豊臣家に残ったのは6歳の秀頼と母の淀殿でしたが、家康が亡くなったときには、すでに将軍の秀忠がいて、その下に御三家となる息子たちが控えていました。

▷ 筆者の考え ─ 子どもの多さこそ、長く続いた秘訣

筆者は、徳川の世が260年続き、豊臣家が二代で終わった一番の理由は、この子どもの数の差にあったと考えています。秀吉がどれほど才覚にすぐれていても、自分の死後に家を支える身内がいなければ、政権は一代で終わってしまいます。家康は多くの子を持ち、それを各地に配して家の守りにしました。家康の「野望」は、戦の勝ち負けだけでなく、子や孫の代まで家を続ける仕組みづくりにあったのでしょう(「家康の野望」とは何か?)。

跡継ぎと死後 ─ 17年と260年

秀吉は長く跡継ぎに恵まれず、53歳で生まれた鶴松も3歳で亡くし、57歳でようやく秀頼が生まれました。秀吉が亡くなったとき秀頼は6歳です。豊臣家は秀吉の死から17年後、大坂の陣で滅びました(家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのか)。

家康には多くの子があり、秀忠に将軍を継がせたうえで、尾張・紀州・水戸の御三家を置いて家が絶えない仕組みを作りました(徳川家康の子ども一覧)。江戸幕府は15代、およそ260年続きます。

家康がまつられた久能山東照宮へ続く石段
家康がまつられた久能山東照宮へ続く石段
▷ 筆者の考え ─ 秀吉の作った舞台で、家康が最後に勝った

筆者は、二人の違いの根っこは「一代で築いたか、代々受け継いだか」にあると考えています。秀吉は自分一人の才覚で天下を取ったからこそ、家を支える譜代も跡継ぎも乏しいままでした。家康は譜代の家臣と多くの子に支えられ、秀吉が作った関白政権の仕組みの中で力をたくわえ、最後は自分の家の世を作りました。天正14年に大坂城で家康が頭を下げた日は、二人の生き方の違いが交わった一日でもあったのです(「家康の野望」とは何か?)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)

第41回では、秀吉と家康がついに大坂城で対面する見込みです。人をもてなすのがうまい秀吉と、腹の内を見せない家康。二人の性格の違いがどう演じ分けられるかが見どころです。回のあらすじは第41回あらすじ予想と史実にまとめています。

よくある質問

Q. 秀吉と家康は何歳ちがうのですか?
A. 秀吉が天文6年(1537)、家康が天文11年(1542)の生まれで、秀吉が5つ年上です。

Q. 秀吉はなぜ征夷大将軍にならなかったのですか?
A. 武士の名門の家柄ではなかったため、朝廷の最高位である関白を選び、天皇の権威のもとで天下をまとめる道をとったと考えられています。

Q. 「鳴くまで待とうホトトギス」は家康の句ですか?
A. 家康本人の句ではありません。江戸時代の随筆などで、三人の天下人の性格をたとえて紹介されたものです。

まとめ

秀吉は農民の子から一代で関白に上り、子飼いの家臣と朝廷の権威で天下をまとめました。家康は三河の大名の家に生まれ、人質の少年時代と譜代の家臣団に支えられて、最後は征夷大将軍として幕府を開きます。豊臣家は秀吉の死後17年で滅び、徳川家はおよそ260年続きました。天正14年、大坂城で向き合った二人は、正反対の道を歩んできた天下人どうしだったのです。

あわせて読みたい:家康はなぜ最後に秀吉への臣従を決断したのか

参考:『徳川実紀』、『甲子夜話』(ホトトギスの句)、各自治体・寺社の解説

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