家康はなぜ秀吉の陣羽織を所望したのか|「二度と殿下に鎧を着させない」逸話の出典と、仕掛けた秀長・浅野長政

大阪城:大阪冬の陣・夏の陣にて淀の方・豊臣秀頼自刃と共に消失!!豊臣秀吉が築城した大阪城
この記事のポイント
  • 天正14年(1586)10月、上洛した家康は、諸大名の前で秀吉の陣羽織を所望し、「これからは殿下に鎧を着させるようなことはいたしません」と申し出たと伝わります
  • この逸話は江戸幕府がまとめた『徳川実紀』に見える話で、同じ時代の史料では確かめられません
  • 『徳川実紀』では、陣羽織を所望するよう家康に勧めたのは、秀長と浅野長政だったとされます。家康を諸大名の前で引き立てるための「段取り」だったのです
  • 家康が天正14年10月27日に大坂城で秀吉に臣従の礼をとったことは、松平家忠の『家忠日記』などから確かめられます

『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、松下洸平さん演じる家康が、ついに上洛して秀吉(池松壮亮)に臣従します。この場面でよく語られるのが、家康が秀吉の陣羽織を所望したという逸話です。この記事では、陣羽織の逸話の中身と出典、そしてこの「名場面」を仕掛けたとされる秀長(仲野太賀)と浅野長政の役割を紹介します。

大阪城
家康が秀吉に臣従の礼をとった大坂城(いまの天守は昭和の復興、大阪城)
目次

陣羽織の逸話とは

天正14年(1586)10月、家康は大坂へ上り、大坂城で秀吉と対面しました。諸大名が居並ぶなかで、家康は秀吉に「殿下がお召しの陣羽織をいただきたい」と願い出ます。秀吉が「これは陣中で着る羽織だから渡せない」と答えると、家康は「この家康がこうして参ったからには、もう殿下に鎧を着て戦場に出させるようなことはいたしません」と言いました。秀吉は大いに喜び、その場で陣羽織を脱いで家康に与えた、というものです。

陣羽織は、戦場で鎧の上に着る羽織です。それを譲り受けるということは、「これからの戦は家康が引き受ける」という宣言であり、同時に、秀吉が天下の主であることを諸大名の前で認めることでもありました。

秀長の屋敷で対面する家康と秀吉のイメージイラスト
秀長の屋敷で向き合う家康と秀吉のイメージ(イメージイラスト)

仕掛けたのは秀長と浅野長政

江戸幕府がまとめた徳川家の歴史書『徳川実紀』(附録)には、この逸話にいたるまでの裏話が書かれています。

  • 家康が上方にいたとき、秀長が家康を朝食に招き、そこへ秀吉が思いがけず加わった
  • そのとき秀吉は、白地に赤い梅の模様を散らし、襟と袖に唐草の刺繍をほどこした陣羽織を着ていた
  • 秀吉が席を立ったあと、秀長と浅野長政がひそかに家康に、あの陣羽織を所望なさるよう勧めた
  • 家康は、人の物をねだったことなどないと一度は断ったが、二人の説得を受け入れた
  • のちに大坂城で諸大名が居並ぶなか、家康は陣羽織を所望し、秀吉はそれを与えた

つまり陣羽織の場面は、家康がとっさに思いついたものではなく、秀長と長政が段取りをつけた「演出」だったというのです。秀吉を喜ばせ、諸大名に家康の臣従をはっきり見せる。そのための仕掛けを、秀吉の弟と、寧々の妹婿という豊臣家の身内二人が用意したことになります(浅野長政とは)。

▽ よく語られる話
家康は、大坂城の対面でとっさに秀吉の陣羽織を所望し、その機転で秀吉の心をつかんだ。
▼ 史実ではこうです
陣羽織の逸話は『徳川実紀』など後世の書物に見える話で、同じ時代の史料では確かめられません。その『徳川実紀』でも、所望するよう勧めたのは秀長と浅野長政だったとされ、家康の機転というより、豊臣方が用意した段取りとして描かれています。

同じ時代の史料からわかること

陣羽織の話は確かめられませんが、家康の上洛そのものは、徳川家臣・松平家忠の『家忠日記』などから日付を追うことができます。家康は10月26日に大坂に着いて秀長の屋敷に入り、その夜、秀吉が宿所を訪ねてきました。翌27日に大坂城で秀吉に対面し、11月4日には秀吉から名物の茶入や刀、鷹などが、家康からは馬10頭や金100枚などが贈られたと記されています。

日付(天正14年) できごと
10月18日 大政所が人質として三河の岡崎に入る
10月26日 家康が大坂に着き、秀長の屋敷に入る。その夜、秀吉が宿所を訪ねる
10月27日 家康が大坂城で秀吉に対面し、臣従の礼をとる
11月4日 秀吉と家康が贈り物を交わす
11月5日 家康が正三位に叙される(のち権中納言)

陣羽織の場面がどこで、いつあったのかについては、伝える書物によって違いがあります。ドラマでは秀長の屋敷の夜と翌日の対面に結びつけて描かれるかもしれません。その夜のことは家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのかでくわしく紹介しています。

この逸話が語り継がれた理由

陣羽織の逸話は、家康を「秀吉の天下を支える第一の大名」として描くものです。江戸時代、徳川家が天下を治めるようになると、家康が秀吉に臣従したことは、どう語るかが難しい出来事になりました。陣羽織の話は、家康が頭を下げたことを、「天下の戦をすべて引き受けた」という頼もしい場面に置きかえています。

一方で、この話の主役は家康だけではありません。家康を諸大名の前で引き立て、兄の秀吉を喜ばせる段取りをつけた秀長の存在も、この逸話には書き込まれています。秀長が「公儀のことは宰相(秀長)に」と言われた、豊臣政権の取りつぎ役だったことを思わせる話です(大友宗麟の大坂城訪問と「公儀のことは宰相に」)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、家康の上洛と秀長の屋敷での夜が描かれる見込みです。陣羽織の名場面が描かれるのか、描かれるなら秀長がどう関わるのかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 家康が秀吉の陣羽織を所望したのはいつですか?
A. 天正14年(1586)10月、家康が上洛して秀吉に臣従したときのことと伝わります。家康が大坂城で秀吉に対面したのは10月27日です。

Q. 陣羽織の逸話の出典は何ですか?
A. 江戸幕府がまとめた『徳川実紀』(附録)などに見える話です。同じ時代の史料では確かめられません。

Q. 陣羽織を所望するよう勧めたのはだれですか?
A. 『徳川実紀』では、秀長と浅野長政がひそかに家康に勧めたとされます。

Q. 秀吉の陣羽織はどんなものでしたか?
A. 『徳川実紀』では、白地に赤い梅の模様を散らし、襟と袖に唐草の刺繍をほどこしたものだったとされます。

まとめ

家康が秀吉の陣羽織を所望し、「もう殿下に鎧を着させない」と申し出た逸話は、家康の臣従を象徴する名場面として語り継がれてきました。ただしこれは『徳川実紀』など後世の書物に見える話で、その『徳川実紀』でも、段取りをつけたのは秀長と浅野長政だったとされます。家康の臣従を、諸大名の前でもっとも効果的に見せる。その舞台裏に、主人公・秀長の姿があったのです。

参考:『徳川実紀』附録/『家忠日記』/柴裕之『徳川家康』平凡社

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