- 戦国時代の大名家の婚礼は、家と家が結ぶ「同盟」の儀式でもありました。花嫁は輿に乗り、嫁入り道具を運ぶ大勢の行列とともに、嫁ぎ先へ向かいました
- 行列の先頭には、夫婦の和合を表す「貝桶」が運ばれるのが習いとされました。国境などで、送る側から迎える側へ花嫁を引き渡す「請取渡し」の儀式も行われました
- 武家の礼法を伝えた小笠原流などでは、婚礼は夜に行われ、花嫁は白の装束で臨み、何日かのちに色のある衣装に改める「色直し」をしたとされます
- 天正14年(1586)の旭姫の輿入れも、浅野長政らが付き従う150人余りの行列でした
『豊臣兄弟!』第40回のタイトルは「あさひの輿入れ」です。「輿入れ」とは、花嫁が輿に乗って嫁ぎ先へ入ること、つまり嫁入りのことです。この記事では、戦国時代の大名家の輿入れがどのように行われたのかを、旭姫の例とあわせて紹介します。旭姫の生涯は旭姫(朝日姫)の生涯で紹介しています。
「輿入れ」とは
「輿」は、人が担いで運ぶ乗り物です。身分の高い女性は、輿に乗って嫁ぎ先へ向かいました。そこから、嫁入りのことを「輿入れ」と呼ぶようになりました。戦国時代の大名家どうしの輿入れは、家と家との同盟を結ぶ政治的な儀式であり、花嫁は両家をつなぐ「かすがい」の役目を担いました。

花嫁行列 ─ 貝桶・長持・付き人
輿入れの行列には、花嫁の輿のほかに、嫁入り道具を運ぶ長持や、身の回りの品を入れた箱、そして花嫁に付き従う侍女や家臣たちが加わりました。行列の先頭には、ハマグリの貝殻を納めた「貝桶」が運ばれるのが習いとされます。ハマグリの貝殻は、対になった貝としか合わないことから、夫婦の和合のしるしとされました。
花嫁には、嫁ぎ先でも仕える侍女や家臣が付けられました。彼らは花嫁の世話をするだけでなく、実家との連絡役も務めました。大名家の花嫁は、一人で嫁ぐのではなく、実家の「出先」ごと嫁いでいったのです。
請取渡し ─ 国境での引き渡し
大名家どうしの輿入れでは、国境などの決められた場所で、送る側の家臣から迎える側の家臣へ花嫁を引き渡す「請取渡し」の儀式が行われることがありました。ここで花嫁は、実家の人間から、嫁ぎ先の人間へと「受け渡される」のです。
婚礼の儀式 ─ 夜の祝言と色直し
室町時代から武家の礼法を伝えた小笠原流などの作法では、婚礼は夜に行われ、花嫁は白の装束で臨んだとされます。三々九度の盃をかわし、何日かのちに、白から色のある衣装に改める「色直し」を行いました。いまの結婚式の「お色直し」は、この習わしの名残です。小笠原家については小笠原貞慶とはで紹介しています。
旭姫の輿入れ ─ 150人余りの行列
天正14年(1586)、旭姫は家康に嫁ぐため、4月に大坂城を出発しました。5月に京を発って東海道を下り、11日に三河の西野に着き、14日に浜松に入って婚礼をあげました。
行列には、秀吉の義弟・浅野長政、秀吉の側近・富田知信、津田四郎左衛門、滝川儀太夫らが付き従い、和睦を仲介した織田信雄の側からも織田長益(有楽斎)や滝川雄利が加わって、150人余りにのぼったと伝わります。天下人の妹の輿入れにふさわしい、豊臣家をあげた行列でした(浅野長政とは)。

戦国の有名な輿入れ
| 花嫁 | 嫁ぎ先 | ねらい |
|---|---|---|
| お市の方 | 浅井長政 | 織田と浅井の同盟 |
| 濃姫 | 織田信長 | 織田と斎藤の和睦 |
| 督姫 | 北条氏直 | 徳川と北条の和睦 |
| 旭姫 | 徳川家康 | 豊臣と徳川の和睦 |
| 江 | 徳川秀忠 | 豊臣と徳川の結びつき |
お市の方についてはお市の方とは、督姫については督姫とはで紹介しています。
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よくある質問
Q. 「輿入れ」とはどういう意味ですか?
A. 花嫁が輿に乗って嫁ぎ先へ入ること、つまり嫁入りのことです。
Q. 「貝桶」とは何ですか?
A. ハマグリの貝殻を納めた桶で、夫婦の和合のしるしとして嫁入り行列の先頭に運ばれました。
Q. 旭姫の輿入れはいつですか?
A. 天正14年(1586)5月14日に浜松で婚礼をあげました。
まとめ
戦国時代の輿入れは、花嫁が輿に乗って嫁ぐ婚礼であると同時に、家と家とを結ぶ同盟の儀式でした。貝桶を先頭にした行列、国境での請取渡し、夜の祝言と色直しといった作法には、家どうしの約束を形にする意味がこめられていました。旭姫の150人余りの行列も、豊臣と徳川の和睦を目に見える形にしたものだったのです。
参考:『嫁入記』(小笠原流)/『家忠日記』/福田千鶴『徳川将軍家の結婚』文春新書
