石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのか|人質拒否の評議・軍制改革・北条同盟と天正14年の決戦計画

冬の岡崎城で普請を急ぐ人々のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 天正13年(1585)11月13日、家康の重臣・石川数正が岡崎から出奔し、秀吉のもとへ走りました。徳川家の内情を知りつくした重臣の離反は、家中に大きな衝撃を与えました
  • それでも家康は秀吉に頭を下げませんでした。その半月ほど前の10月28日、家康は重臣を浜松城に集め、秀吉が求めた新たな人質を出さないと決めていたからです
  • 家康は軍制を改め、北条家との連携を固めて、秀吉との決戦に備えます。秀吉も天正14年(1586)の春には家康を攻める構えでした
  • この決戦を止めたのが、天正13年11月29日の夜に起きた天正地震でした

『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」は、重臣の出奔に揺れながらも、家康が秀吉と戦う構えを崩さないところから始まります。重臣・石川数正を失った家康は、なぜそれでも秀吉と戦おうとしたのでしょうか。この記事では、数正の出奔の前後に家康が置かれていた状況と、決戦に向けて打った手を、史料にもとづいて整理します。数正が家康を裏切った理由そのものは石川数正はなぜ家康を裏切ったのかでくわしく書いています。

冬の岡崎城で普請を急ぐ人々のイメージイラスト
数正の出奔のあと、家康は岡崎城の守りを固めさせました(イメージイラスト)
目次

小牧・長久手のあと ─ 「負けていない」家康

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、家康は長久手で秀吉方の池田恒興・森長可らを討ち取り、局地戦では勝利を収めました。ところが、ともに戦っていた織田信雄が秀吉と単独で和睦してしまい、家康は戦う理由を失います。家康は次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として差し出し、ひとまず戦いを収めました(小牧・長久手の戦いはどっちが勝ったのか)。

しかし家康自身は、秀吉に臣従したわけではありません。家康から見れば、戦場では負けていないのに、なぜ頭を下げなければならないのか、という思いがあったはずです。この「負けていない」という自負が、のちの強気な態度の土台になります。

天正13年10月28日 ─ 浜松城で「人質は出さない」と決める

天正13年(1585)、秀吉は関白となり、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政を次々に従えました。その勢いのまま、秀吉は家康に対して、重臣の子などを新たな人質として差し出すよう求めます。人質を出すことは、事実上秀吉の家臣になることを意味しました。

この年の閏8月には、徳川から離れた真田昌幸の上田城を攻めて大敗しており(第一次・第二次上田合戦)、徳川家の立場は決して強くありませんでした。それでも10月28日、家康は重臣たちを浜松城に集めて評議し、秀吉に新たな人質は出さないと決めます。家中の大勢は秀吉との対決に傾いていました。このとき、秀吉との交渉役として融和を説いていたのが石川数正だったと考えられています。

11月13日 ─ 石川数正の出奔

評議からわずか半月後の11月13日、岡崎城代だった石川数正は、妻子や家臣を連れて岡崎を出奔し、秀吉のもとへ走りました。このとき数正は、徳川方に預けられていた信濃の小笠原貞慶の人質も連れていったとされ、貞慶も徳川から離れて秀吉方につきます。

数正は、家康が今川家の人質だった少年時代から仕えてきた最古参の重臣で、徳川家の軍の動かし方も、城の守りも、家臣団の内情も知りつくしていました。その数正が敵に回ったのですから、徳川家にとっては、作戦が秀吉に筒抜けになるという深刻な事態でした。

家康が打った手 ─ 軍制改革と北条との連携

それでも家康は、ここで秀吉に屈する道を選びませんでした。数正の出奔のあと、家康が急いだのは次のようなことです。

家康の対応 内容
岡崎城の守りを固める 数正が城代だった岡崎城に家臣を入れ、城の普請を急がせた
軍制を改める 数正に知られた徳川流の軍法をやめ、旧武田家の家臣から武田流の軍法を取り入れたと伝わる
北条家との連携 同盟相手の北条家と連絡を密にし、背後を固めた。翌天正14年3月には北条氏政と伊豆・駿河の国境で会見している
家臣団を引き締める 家臣たちの結束を確かめ、さらなる離反を防いだ

軍制の改革について、くわしくは石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのかで紹介しています。北条家とは、天正10年に和睦して以来の同盟関係にありました。北条家が背後にいる限り、家康は東を心配せずに西の秀吉と向き合うことができたのです(北条五代100年の歴史)。

浜松城の天守
家康の本拠だった浜松城。天守は昭和33年の復興です(浜松城)

家康はなぜ戦おうとしたのか ─ 四つの理由

重臣を失い、真田にも敗れたばかりの家康が、なぜ天下人となった秀吉に強気でいられたのでしょうか。理由は大きく四つ考えられます。

  • 小牧・長久手で負けていないという自負:戦場で秀吉に勝った経験が、家康と家臣団の自信になっていた
  • 北条家との同盟:関東の大大名・北条家と結んでいたため、背後を気にせず戦えた
  • 人質を出せば臣従になる:重臣の子を差し出せば、徳川家は秀吉の家臣と同じ扱いになる。家臣団の多くはそれを受け入れなかった
  • 秀吉にも弱みがあった:秀吉は九州の島津攻めも控えており、長い戦いを東で続ける余裕はなかった。家康は時間を味方にできると考えた可能性がある
▽ よく語られる話
石川数正が出奔したことで、家康はもう秀吉と戦えなくなり、すぐに秀吉に従った。
▼ 史実ではこうです
数正の出奔のあとも、家康は軍制を改め北条家と結んで、秀吉との決戦に備えていました。家康が秀吉に従うのは、天正地震で秀吉が家康攻めをあきらめ、妹の旭姫と母の大政所まで差し出してきた、およそ一年後の天正14年10月のことです。

秀吉の家康攻め ─ 天正14年春の出陣計画

秀吉の側も、家康を武力で従わせるつもりでした。人質を拒まれた秀吉は、翌天正14年(1586)の春に自ら出陣する意向を示し、美濃の大垣城に兵糧を集めさせていました。大垣城は、尾張・三河へ攻め込むときの前線基地です。徳川から離れた真田昌幸や小笠原貞慶にも、家康を討つ考えを伝えていました。

徳川と豊臣の決戦は、いつ始まってもおかしくない状況でした。そこへ襲いかかったのが、天正13年11月29日の夜の大地震です。秀吉の前線基地だった大垣城は全壊焼失し、近江の長浜城、伊勢の長島城なども崩れ落ちました。戦どころではなくなった秀吉は、家康攻めをあきらめ、和睦へと方針を切り替えます。地震の被害は天正地震で壊れた城で、地震そのものは天正大地震とはで紹介しています。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」は10月18日(日)放送予定です。家康(松下洸平)、あさひ(倉沢杏菜)。第40回の冒頭では、重臣の出奔に揺れる徳川家と、それでも戦う構えを崩さない家康が描かれると予想されます。数正の出奔が第39回の終わりに描かれるのか、第40回で描かれるのかも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 石川数正が出奔したのはいつですか?
A. 天正13年(1585)11月13日です。岡崎城から妻子や家臣を連れて秀吉のもとへ走りました。

Q. 数正の出奔のあと、家康はすぐ秀吉に従ったのですか?
A. いいえ。家康は軍制を改め、北条家と結んで秀吉との決戦に備えました。秀吉に従ったのは天正14年10月の大坂での対面のときです。

Q. 家康が秀吉に人質を出さないと決めたのはいつですか?
A. 天正13年10月28日、浜松城に重臣を集めた評議で決めたとされます。

Q. 秀吉はいつ家康を攻めるつもりだったのですか?
A. 翌天正14年の春に出陣する構えで、美濃の大垣城に兵糧を集めていました。天正地震でこの計画は取りやめになります。

まとめ

石川数正の出奔は、徳川家にとって大きな痛手でした。それでも家康は、小牧・長久手で負けていないという自負と、北条家との同盟を支えに、人質を出さず秀吉と戦う道を選びます。軍制を改め、岡崎の守りを固め、決戦に備えていた家康と秀吉の対決を止めたのは、人の力ではなく、天正13年11月29日の大地震でした。そしてこのあと秀吉は、武力ではなく妹・旭姫の輿入れという手で家康を動かそうとします(旭姫(朝日姫)の生涯)。

参考:『家忠日記』/柴裕之『徳川家康』平凡社/平山優『天正壬午の乱』戎光祥出版/東洋経済オンライン「石川数正の出奔」関連記事

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