秀長は紀伊をどう治めたのか:紀州攻めのあと和歌山・湊・田辺・新宮に置いた家臣たちと吉川平介|『豊臣兄弟!』

紀伊の和歌山の湊で荷を検める代官と、普請中の城のイメージ(イラスト)

天正十三年(1585)の紀州攻めのあと、紀伊一国は豊臣秀長の領国になりました。秀長は国の中心に和歌山城を築いて桑山重晴を置き、船と物資の拠点の湊には吉川平介、田辺には杉若無心、日高には青木一矩、熊野の新宮にはもとからの国衆・堀内氏善を据えます。そのうえで検地と刀狩を進め、寺社と地侍の国だった紀伊を作り替えていきました。ただ、熊野の山奥では北山一揆が起き、紀伊の支配は秀長を最後まで悩ませます。

この記事のポイント
  • 紀州攻めで根来・雑賀・太田城が降り、紀伊は秀長の領国になった
  • 和歌山城に桑山重晴、紀伊湊に吉川平介、田辺に杉若無心、日高に青木一矩、新宮に堀内氏善を置いた
  • 秀吉のいとこにあたる青木一矩は、紀州攻めの功で一万石に加増され、秀長の補佐役と記された
  • 紀伊では天正十三年に刀狩令が出され、閏八月から秀長の検地が始まった
  • 熊野の山奥では、翌年から北山一揆が起き、鎮圧に三年かかった
目次

紀州攻めで、紀伊は秀長の国になった

天正十三年(1585)三月、秀吉は十万ともいわれる大軍で紀伊に攻め込みました。前年の小牧・長久手の戦いで家康方についた根来寺や雑賀の人びとを討つためです。根来寺は焼け、雑賀は内部から崩れ、最後まで抵抗した太田城も水攻めの末に開城します。高野山は使者の木食応其の交渉で生き残りました。この戦いはなぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのか、高野山はなぜ秀吉に焼かれなかったのか、根来衆とは何者だったのかで詳しく紹介しています。

戦いのあと、紀伊一国は秀長に与えられました。秀長はこの年、大和・紀伊・和泉をあわせて百万石の大名になります。紀伊は、寺社の大軍と鉄砲を抱えた地侍たちの国でした。秀長はここを、一から治め直さなければなりませんでした。

紀伊のどこに、誰を置いたのか

場所 置かれた人 役割
和歌山(若山) 桑山重晴 紀伊の中心の城を預かる城代
紀伊湊 吉川平介 船と物資の拠点の代官
粉河 藤堂高虎 紀北の要地
日高(入山) 青木一矩 紀中の押さえ
田辺 杉若無心 紀南の押さえ
新宮 堀内氏善 熊野の国衆。本領を安堵され熊野水軍を率いる

秀長は紀伊の要所に、腹心の家臣と在地の有力者を組み合わせて置きました。北の和歌山と湊は政治と物流の中心、南の田辺と新宮は熊野への入口です。それぞれの人物を順に見ていきます。秀長の家臣団全体は豊臣秀長の家臣団とはで紹介しています。

和歌山城と桑山重晴 ── 紀伊の中心

秀長が紀伊の中心に選んだのは、紀ノ川の河口近くにある虎伏山でした。ここに城を築き、城代として桑山重晴を置きます。城の普請にあたったのは藤堂高虎で、これが高虎の最初の本格的な築城になりました。城の歩みは和歌山城で紹介しています。

紀伊湊と吉川平介 ── 船と物資の拠点

和歌山城の近くの紀伊湊には、吉川平介が代官として置かれました。もとは船や物資の扱いに通じた人物で、紀州攻めの直後に行われた四国攻めでは、海を渡る大軍のための船を手配しています。平介はのちに熊野の山奉行も務め、紀伊の木と船を握る立場になりました。豊臣方の水軍については豊臣水軍とはで紹介しています。

田辺の杉若無心と、日高の青木一矩

紀伊の南の田辺には、杉若無心が置かれました。越前の出身で、もとは朝倉家の家臣だったとされます。紀州攻めでは秀長の配下として城を攻め、戦後に田辺の領主となりました。のちに上野山城を築いて城下町を整え、秀長・秀保の死後は秀吉に直属して一万九千石を領しましたが、関ヶ原の戦いで西軍について改易されています。

紀伊の中部、日高郡の入山には青木一矩が置かれました。母が秀吉の母・大政所の妹で、秀吉のいとこにあたる人物です。紀州攻めで日高の国衆・湯河直春を破った功で、千石から一万石に加増され、秀長の補佐役と記されています。一矩は翌年には越前に移り、のちに北ノ庄の城主にまでなりました。秀吉・秀長の一族については豊臣秀長はどう出世したのかでも触れています。

新宮の堀内氏善 ── 熊野水軍を抱えた国衆

熊野の新宮には、もとからこの地を治めていた堀内氏善がそのまま置かれました。熊野別当の流れをくむ一族で、熊野水軍を抱える国衆です。紀州攻めでは降伏して本領を安堵され、その後は北山一揆の討伐にも加わりました。朝鮮出兵では熊野水軍を率いて出陣しています。関ヶ原の戦いで西軍につき所領を失いましたが、のちに加藤清正に仕えて熊本で晩年を過ごしました。熊野の水軍を含む豊臣方の船の動きは豊臣水軍とはで扱っています。

▽ よく語られる話
紀州攻めのあと、紀伊は秀長の家臣だけで固められた。
▼ 史実ではこうです
秀長は和歌山や湊に腹心を置く一方、新宮の堀内氏善のように、降伏した在地の国衆をそのまま使ってもいます。熊野のような山と海の土地では、地元の事情を知る者を味方につけるほうが治めやすかったと考えられます。

刀狩と検地 ── 紀伊で始まった新しい支配

紀伊は、のちに全国で行われる政策の先がけの地でもありました。太田城が開城したとき、秀吉は百姓に農具を持ち帰ることを許す一方で、武器を取り上げています。天正十三年六月には紀伊と高野山に刀狩令が出され、全国の刀狩令(天正十六年)に先立つものとされます。

同じ年の閏八月からは、秀長の主導で紀伊の検地が始まりました。田畑の広さと収穫を一筆ごとに書き上げ、年貢の基準を作り直す作業です。大和の検地を担った小堀正次のような実務の家臣が、紀伊でも働いたと考えられます。

治まらなかった熊野

和歌山から田辺までは秀長の支配が行き渡りましたが、熊野の山奥は別でした。天正十四年(1586)には奥熊野の北山で地侍が蜂起し、北山一揆が起きます。藤堂高虎が山中に赤木城を築いて鎮めるまで、三年がかりの戦いになりました。そして熊野の山を預かっていた吉川平介は、熊野の木の売り上げをめぐる不正で失脚し、責めは秀長にまで及びます。紀伊は、秀長にとって最後まで手のかかる国でした。

『豊臣兄弟!』では

ドラマでは、紀伊を任された家臣のうち、桑山重晴(住田隆)と吉川平助(松岡広大)、藤堂高虎(佳久創)がすでに登場しています。吉川平助は第36回「姫若子と鬼若子」で、紀伊湊の代官として四国攻めの船を手配する新しい家臣として描かれました。杉若無心・青木一矩・堀内氏善の配役は、いまのところ発表されていません。紀伊を含む秀長の百万石の成り立ちは天正十三年の論功行賞で紹介しています。

▶ この先描かれるかもしれない紀伊の話(予想)
  • 吉川平助が熊野の山奉行として木材を扱う場面
  • 熊野の北山一揆と、藤堂高虎の赤木城
  • 秀吉のいとこ・青木一矩が秀長を補佐する姿

ドラマではこう描かれています

▷ 大河ドラマではこう描かれました
第36回「姫若子と鬼若子」で、吉川平助(松岡広大)が紀伊湊の代官として四国攻めの船を手配する新しい家臣として登場しました。四国攻めの史実は第36回「姫若子と鬼若子」史実解説で、紀州攻めの前年の小牧・長久手の戦いは第34〜35回 史実解説で解説しています。
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まとめ

紀州攻めのあと、秀長は紀伊の要所に桑山重晴・吉川平介・藤堂高虎・青木一矩・杉若無心を置き、熊野の新宮には在地の堀内氏善を据えました。刀狩と検地で新しい支配を始めた一方、熊野の山奥では北山一揆が起き、吉川平介の不正も起きます。紀伊の国づくりは、秀長の百万石の中でも、とりわけ手のかかる仕事でした。秀長の生涯は豊臣秀長とはからどうぞ。

参考

  • 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書
  • 『多聞院日記』
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