田を見て「肥しが行き届いていない」と言い当て、庄屋の手を見て「立派な働きの手だ」と言う。第三十七回のこの場面は、秀長という人の出自をよく示しています。そして村が苗を詰めて植えていたという話には、当時の農業と年貢のからくりが詰まっています。なぜ詰めるのか、詰めると何が起きるのか。順に見ていきます。
- 苗を詰めて植えれば株数は増えますが、肥料と日当たりの取り合いになります
- 結果として一株あたりが痩せ、見た目ほど実は入りません
- この時代の肥料は買うものではなく、山や家畜から集めるものでした
- 集められる肥料の量には限りがあり、作付けだけ増やしても追いつきません
- それでも詰めるのは、納める量が先に決まっているからです
苗を詰めると、どうなるか
田に植える苗の間隔を狭めれば、同じ面積により多くの株が入ります。株が多ければ穂も増える。理屈のうえではそう見えます。
ところが稲は、根から養分を取り、葉で光を受けて実をつけます。株が近すぎれば、根は同じ土の養分を奪い合い、葉は互いに影をつくります。風も通らなくなり、病気も出やすくなる。結果として一株ごとの穂が小さくなり、籾の入りも悪くなります。田全体で見ると、詰めたぶんだけ増えるということにはなりません。
肥料が十分にあれば、密植でも収量は上がります。逆に肥料が足りない田で株だけ増やすと、全体が痩せます。秀長が見て「育ちが悪い」と気づいたのは、青々としていても穂の付き方が薄いという、この状態だったのでしょう。
こうして穫れた米が城の蔵でどう扱われたのかは戦国時代の米はまずかったのかを。
肥料は、買うものではなかった
この時代の肥料を並べると、草木灰、刈敷、厩肥、そして人糞尿です。
草木灰は木や草を焼いた灰。刈敷は山や野の草を刈って田に敷き込んだもの。厩肥は牛馬の糞と敷き藁を積んで腐らせたもの。人糞尿が肥料として使われるようになったのは鎌倉時代の末ごろからとされます。
どれにも共通しているのは、集めてくるものだということです。刈敷には草を刈る山が要り、厩肥には牛馬が要り、どれにも人手が要ります。山を持たない村、牛馬のいない家は、それだけで不利でした。干鰯や油粕を銭で買う金肥が広まるのは、江戸に入ってからのことです。
つまり肥料の量は、その村が持っている山と家畜と人手で上限が決まります。田を広げても、苗を詰めても、そこから先は増えません。
肥料に回す余力を奪っていたのが年貢の重さで、大和ではその年貢が寺のもとへ直接集まる仕組みになっていました。
それでも詰めるしかない
庄屋はその板挟みに立ちます。領主には村を代表して年貢を請け負い、村には割り当てを配る。石川清兵衛という役どころが背負っているのは、この位置です。手が荒れているのは、自分も田に出ているからでしょう。

なぜ秀長には分かったのか
田を一目見て育ちの悪さに気づくというのは、書物では身につきません。秀長はもともと尾張の農民で、兄に呼ばれるまで田を耕していました。稲の色と穂の付き方を見る目は、その時代に身についたものです。
大名になってから領地を見に行く人は珍しくありませんが、見て何が分かるかは別の話です。年貢の帳面を見て「少ない」と言うのは誰にでもできます。田を見て「肥しが足りない」と言えるかどうかで、そのあとに打てる手が変わってきます。
まっすぐ植えるようになるのは、ずっとあとのこと
いまの田んぼは、苗が定規で引いたように並んでいます。あれを正条植えといいますが、全国に広まったのは近代に入ってからです。戦国の田植えは、目分量でばらばらに植える乱雑植えでした。
並べて植えると、株と株のあいだに風と光が通ります。草取りもしやすく、病気も出にくい。ただし、そのためには一株ずつの間隔を決めて守らなければなりません。取れる量を減らしてでも間隔をあける、という判断が要ります。
年貢の額が先に決まっている村に、その判断はできません。村がまとめて請け負う年貢を払い切るには、まず株数を増やすしかない。技術を知らなかったのではなく、選べなかったということです。
戦国の田は、いまの田とどれくらい違うのか
いちばん違うのは肥料です。金肥(買う肥料)が広く出回るのは江戸時代に入ってからで、戦国の村は刈敷(かりしき)、草木灰、厩肥といった、手に入るものだけで回していました。山から草を刈って田へ入れる作業は重労働で、入会地をどう使うかは村の決めごとそのものでした。
品種も違います。いまのような改良品種はなく、土地ごとの在来種です。日照りに強い代わりに味の落ちるもの、味はよいが倒れやすいものなど、村ごとに事情が違いました。城の蔵に積まれた米が痩せて見えたのは、保管のせいだけではありません。
水利も不安定です。用水の順番は村と村のあいだの争いのもとで、日照りの年には水をめぐって実際に争いが起きました。米を作るという仕事は、土と水と人の折り合いをつけ続ける仕事でした。
秀長が見抜いたことの意味
密植を見て「肥しが行き届いていない」と言えるのは、田を実際に触ったことがある人間だけです。秀長は百姓から身を起こしています。兄が草履取りから出世した話ばかり語られますが、弟のほうは田の話ができました。
そして、原因を村の怠けに求めなかったところが大きい。年貢が重すぎることが原因なら、直すべきは村ではなく額のほうです。だから検地に向かいました。叱るかわりに測る、という判断です。
検地奉行を務めた小堀正次が賊に襲われるところまでいったのは、この作業が寺社の取り分に直接触るものだったからでした。
検地は、何を変えたのか
太閤検地がやったのは、田を一枚ずつ測り、土地の良し悪しで等級をつけ、そこから穫れるはずの量を決めることでした。大和でも検地奉行が竿を入れています。

これは村にとって、両刃でした。ごまかしが効かなくなる一方で、基準がはっきりします。それまでは寺や領主が代々の慣行で取っていたものが、測った数字に置き換わる。無理をしなければ納まらない割り当てなのかどうかが、目に見える形になりました。
第三十七回で秀長が検地を進めるのは、年貢を増やすためではなく、正しい量にするためだと描かれます。実際、寺が集めていた年貢を領主が集める形に変えるには、まず田を測り直すしかありませんでした。
村がこうした判断を村全体で決めていた仕組みは惣村とは:戦国の村がつくった自治と、乙名・村掟・自検断・地下請の仕組みを。
まとめ
苗を詰めるのは、欲ではなく余裕のなさです。肥料には上限があり、作付けだけ増やしても収穫は追いつきません。それでも詰めるのは、納める量が先に決まっているからでした。
そして、それを田を見ただけで見抜ける領主は多くありません。城下の米がまずいという話ともつながる、地に足の着いた場面でした。

