家康はなぜ秀吉に臣従したのか:旭姫の輿入れ、大政所の人質、そして秀長の屋敷での対面

秀長の屋敷で対面する家康と秀吉(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

小牧・長久手の戦いで秀吉と引き分けた徳川家康は、その後およそ二年のあいだ、秀吉のもとへ出向こうとしませんでした。その家康が、天正十四年(1586)十月、ついに大坂へのぼり、秀吉に臣従します。大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、旭姫(あさひ)の輿入れから家康の上洛へと、話は大きく動いていくはずです。

戦で負けたわけではない家康は、なぜ頭を下げたのでしょうか。この記事では、秀吉が打った手を順にたどり、家康が大坂で最初に泊まったのが秀長の屋敷だったことにも触れながら、臣従までの道のりを解説します。

この記事のポイント
  • 小牧・長久手の戦いのあと、織田信雄が秀吉と和睦したことで、家康は戦う名分を失った
  • 天正十三年(1585)には重臣の石川数正が秀吉のもとへ去り、同じ年の暮れには天正大地震が起きて、秀吉の家康攻めも立ち消えになった
  • 秀吉は妹の旭姫を家康の正室に送り、さらに母の大政所を人質として岡崎へ送った。ここまでされて、家康は上洛を決めた
  • 大坂に着いた家康は秀長の屋敷に泊まり、翌日、大坂城で諸大名の前で秀吉に臣従の礼をとった

秀長の屋敷で対面する家康と秀吉(イメージ)

目次

家康は負けていなかった:小牧・長久手のあと

天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、家康は長久手で秀吉方の大軍を破りました。ところが、ともに戦っていた織田信雄が、家康に断りなく秀吉と和睦してしまいます。信雄を助けるという戦の名分を失った家康も兵を引き、戦は引き分けのかたちで終わりました。

その後、秀吉は関白となり、四国も平定して、天下人としての地位を固めていきます。一方の家康は、戦場で負けていない以上、秀吉の家臣になる理由はないという立場でした。秀吉がいくら上洛を求めても、家康は動きません。

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家康を追い込んだ二つの出来事

天正十三年(1585)十一月、家康にとって大きな痛手となる出来事が起きます。徳川家の重臣で、秀吉との交渉役もつとめていた石川数正が、家族を連れて秀吉のもとへ去ったのです。家康の軍の内情を知りつくした重臣の出奔でした。数正がなぜ家康を離れたのかは石川数正はなぜ徳川家康から豊臣秀吉へ寝返ったのかで書いています。

秀吉はこの機に家康を攻める準備を進めました。ところが同じ月の末、中部から近畿にかけての広い範囲を大地震が襲います。天正大地震です。秀吉方の城も大きな被害を受け、家康攻めは立ち消えになりました。地震のくわしい被害は天正大地震とはで解説しています。

武力で決着をつけることが難しくなったことで、秀吉は別の方法で家康を動かそうとします。

秀吉の切り札:旭姫と大政所

天正十四年(1586)五月、秀吉は妹の旭姫を家康の正室として浜松へ送りました。旭姫はすでに四十歳を超えており、夫と別れさせられての輿入れだったと伝わります。家康を身内に取り込むための、なりふりかまわない縁組でした。

それでも家康は上洛しません。そこで秀吉は、さらに踏み込んだ手を打ちます。同じ年の十月、母の大政所を、旭姫の見舞いという名目で岡崎へ送ったのです。天下人が自分の母を人質に差し出したことになります。ここまでされて、家康もついに上洛を決めました。

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大坂での対面:秀長の屋敷に泊まった家康

十月二十日ごろ岡崎を発った家康は、二十六日に大坂に着き、秀長の屋敷に宿をとったとされます。敵として戦った相手の本拠に入る家康を、まず迎えたのが秀吉の弟だったことになります。温厚で知られた秀長は、秀吉と家康のあいだを取り持つのにうってつけの人物でした。

その夜、秀吉がひそかに秀長の屋敷を訪ね、家康の手を取って、天下のために臣従してほしいと頼んだという話が伝わっています。そして翌二十七日、家康は大坂城で、諸大名が居並ぶなか、秀吉に臣従の礼をとりました。

陣羽織の逸話は本当か

このときの話としてよく知られているのが、陣羽織の逸話です。対面の場で家康が秀吉の陣羽織を所望し、そのわけを問われると、「これからは殿下にふたたび陣羽織を着させるようなことはいたしません」と答えた、というものです。家康が秀吉の戦をすべて引き受けるという意思を示し、臣従を諸大名に印象づけた場面として、ドラマや小説でもたびたび描かれてきました。

ただし、この逸話は江戸時代に書かれた書物に見える話で、同時代の確かな史料では確かめられません。秀吉と家康が前夜に打ち合わせて演じた「芝居」だったという見方もあり、真偽ははっきりしないのが実情です。

臣従のあと:家康は何を得たのか

臣従した家康は、豊臣政権のなかで重い地位を与えられ、のちに五大老の筆頭となっていきます。戦で負けずに頭を下げた家康は、秀吉の家臣となることで、かえって政権の中で最も大きな力をもつ大名になりました。大政所は家康の上洛後、無事に大坂へ戻されています。

秀吉の死後、その力は豊臣家をしのぐものになり、関ヶ原の戦いへとつながっていきます。天正十四年の臣従は、家康にとって「負け」ではなく、天下への長い助走の始まりだったといえるかもしれません。秀吉の死後の流れは秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかで書いています。

まとめ

家康が秀吉に臣従したのは、戦に負けたからではありませんでした。信雄の単独和睦で戦う名分を失い、石川数正の出奔で内情を知られ、天正大地震で秀吉の攻撃は止まったものの、秀吉は妹の旭姫、さらに母の大政所まで差し出してきました。ここまでされては、上洛を断る理由がなくなったのです。

大坂で家康を最初に迎えたのが秀長の屋敷だったことは、『豊臣兄弟!』の物語にとっても大事な場面になりそうです。兄と家康のあいだに立つ秀長が、どう描かれるのかに注目です。

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