大河内城跡(松阪市):五十日の籠城と、養子縁組で終わった北畠氏

大河内城:織田信長との籠城戦の末に降伏した北畠具教の居城 大河内城

大河内城(おおかわちじょう)は、伊勢の国司・北畠氏の城です。織田信長の伊勢攻めにあたり、北畠具教・具房の父子がここに籠もり、五十日ほど持ちこたえました。決着は力攻めではなく、信長の次男を養子に迎えるという形の講和です。家を残したように見えるこの決着が、実際には北畠氏の終わりの入口でした。城跡は丘に残り、曲輪と石積みが見られます。

この記事のポイント
  • 南北朝以来つづいた伊勢国司・北畠氏が拠点とした山城
  • 信長の大軍を五十日ほど支えたが、力では決着がつかなかった
  • 講和の条件は信長の次男・信雄を養子に迎えること
  • 数年後に具教は討たれ、北畠氏は名を残して実体を失った

本丸跡を示す石柱

木立のなかに立つ本丸跡の石柱。足もとに石が並び、道が奥へ続いている。曲輪の平場は木の下に広がる。

目次

伊勢国司・北畠氏の城

北畠氏は、南北朝の動乱で南朝方として伊勢に入った公家の家です。以後この地に根を下ろし、国司でありながら武家として伊勢を治めました。本拠は山あいの多気にあり、霧山城と館がその中心です。公家の家柄と武家の実力をあわせ持つ、珍しい存在でした。

戦国期に入ると、北畠氏は伊勢の平野部へ勢力を広げます。大河内城は、その過程で押さえられた城です。阪内川にのぞむ丘に築かれ、本丸・二の丸・西の丸が尾根づたいに並びました。田丸城とあわせて、伊勢南部を押さえる要の位置にあります。

斜面に残る石積み

斜面の途中に残る石積み。大きさのそろわない石を重ねたもので、曲輪のきわを支えている。上には平場が広がる。

信長の伊勢攻めと、五十日の籠城

尾張を統一し美濃を手に入れた信長は、次に伊勢へ向かいました。北伊勢の攻略は滝川一益に任され、在地の領主が一つずつ従えられていきます。そして永禄十二年(一五六九)、信長自身が大軍を率いて南下し、大河内城を囲みました。

城方はよく守りました。力攻めは退けられ、信長は包囲を長引かせて兵糧を断つ方針に切り替えます。城の外では村々が焼かれ、補給路が断たれました。それでも城は落ちず、五十日ほどが過ぎます。山城の守りの固さと、伊勢の国人たちの結束が、それだけの時間を生みました。

養子縁組という決着

▽ よく語られる話
北畠具教は籠城戦を耐えぬき、講和にこぎつけて家を守った。
▼ 史実ではこうです
講和の条件は、信長の次男・信雄を北畠家の養子に迎え、家督を譲ることでした。城は保たれても、家そのものが織田の手に渡る取り決めです。具教は隠居させられ、実権を失います。そして天正四年(一五七六)、三瀬の館で襲われて討たれました。同じ日、田丸城などでも北畠一族の主だった者が殺されています。攻め落とさずに家を内側から取る—この決着は、力攻めよりも徹底していました。

養子に入った信雄は、のちに織田信雄として知られる人物です。北畠の名を名のって伊勢を治め、信長の死後は織田家の跡目をめぐる争いに巻きこまれていきます。伊勢の国司の家名は、こうして織田家の一員の肩書きへと変わりました。

大河内城跡の説明板

県の史跡であることを示す説明板。城の沿革と籠城戦の経過が記され、下には城跡を写した古い写真が添えられている。

廃城、そして松坂へ

信雄は伊勢の本拠を田丸城へ移し、大河内城は役目を終えました。山の上の城から、平野に近い城へ—この移り方は、各地で同じ時期に起きています。やがて伊勢南部の中心は、蒲生氏郷が築いた松坂城と、その城下町に移っていきました。

大河内城は、そのまま山に残されました。石垣を積み直されることも、天守を上げられることもなく、曲輪と堀切が土のまま保存されています。近世の城に建て替えられなかったからこそ、戦国の山城の姿が残ったともいえます。

大河内城跡の訪ね方

城跡は松阪市の南東、車で中心部から十五分ほどの丘にあります。麓から登る道がつけられ、本丸跡までは十数分。曲輪の平場と、それを区切る堀切、斜面の石積みが見どころです。木立に覆われているので、夏より冬から春のほうが歩きやすく、地形も読みやすくなります。

伊勢の城をめぐるなら、北畠氏の本拠だった霧山城、信雄が移った田丸城、そして松坂城と結ぶのが順路です。山の城から平野の城へ、公家の家から近世大名へ—三つの城跡が、その移り変わりをそのまま示しています。

所在地:〒515-1105 三重県松阪市大河内町

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