上田城の縄張と惣構え:百間堀と付け替えられた矢出沢川、城下町ごと囲いこんだ真田昌幸の設計

上田城:徳川軍を二度にわたり撃破した上田城(前編)

上田城の強さは、城そのものより縄張にありました。真田昌幸がこの城で守ろうとしたのは本丸ではなく、城下町を含めた一帯ぜんぶです。南は千曲川が削った段丘の崖、北と西は百間堀と呼ばれた大きな水濠、その外側には川を付け替えてつくった外堀。町も家臣の屋敷も、その内側に入っていました。これを惣構え(そうがまえ)といいます。関ヶ原のあと城は破却されますが、のちの復興工事は埋められた堀を掘り返す作業が中心で、縄張の骨格は昌幸が引いた線をほぼそのまま受け継いでいます。

この記事のポイント
  • 城だけでなく城下町ごと堀で囲む「惣構え」の城だった
  • 百間堀はもともと自然の川筋で、それを広げて水濠にしたもの
  • 矢出沢川を北へ付け替え、その流れ自体を外堀として使った
  • 南は千曲川が削った段丘の崖。ここからは登れない
  • 破却後の復興工事は、真田時代の堀を掘り返す形で進められた
目次

崖の上に置かれた城

上田城の櫓を石垣の下から見上げる

石垣の上に載る櫓を間近から見上げる。下見板張りの黒い壁と白漆喰、格子のはまった窓が重なって見える。

上田城の本丸と二の丸は、どちらも南側を千曲川の段丘崖に預けています。写真のように石垣の上に櫓が建っていますが、この石垣の下にはさらに自然の崖が続いていて、川の側から取りつくことはまずできません。城づくりの手間をかけずに、最初から一方向を封じている。残る三方をどう固めるかに力を集中できるわけで、縄張の出発点がここにあります。この崖と川がどう戦いの結果を左右したかは、上田城はなぜ落ちなかったのかのほうで詳しく扱いました。この記事では、その崖を前提にして昌幸が何を設計したかを見ていきます。

百間堀 ― もとは川だった大堀

二の丸の北から西にかけて、百間堀と呼ばれる巨大な堀がめぐっていました。名前のとおり幅が百間、つまり百八十メートル前後もあったとされる水濠です。掘り抜いたと思われがちですが、実際はもともとそこを流れていた川の跡を広げ、土手で仕切って水を溜めたものでした。ゼロから掘るのと、すでにある低地を利用するのとでは、動員する人数も日数もまるで違います。昌幸は土地の形をよく読んでいました。ここまで幅のある堀を渡るには、橋を落とされたら舟を用意するしかありません。しかも渡っている最中は完全に無防備です。関東の館林城が沼を要害にしたのと考え方は同じで、水そのものを兵力の代わりに使っています。

矢出沢川を付け替える

上田城の櫓門の軒と、その上に続く櫓の壁

櫓門の深い軒を下から見る。太い梁が横に走り、その上の櫓には白壁と縦の格子が連なっている。

もうひとつ、昌幸は川そのものを動かしています。城のあたりを流れていた矢出沢川を北へ移し、城の北西で直角に曲げて千曲川へ落とした。この付け替えによって、川の流れ自体が城と城下町の北と西を囲む外堀になりました。堀を掘るのではなく、川を引いてくる。土木工事としては大がかりですが、一度やってしまえば水は勝手に流れ続けます。維持の手間がかからない堀を手に入れたわけです。真田氏はもともと信濃の小さな国衆で、大名としての財力は限られていました。使える金も人も少ないなかで最大の効果を出すには、自然の地形と水をどこまで働かせられるかが勝負になる。上田城の縄張は、その考え方の見本のような城です。

惣構え ― 町ごと囲いこむ

二の丸の東には三の丸が置かれ、こちらは南北に走る堀で区切られていました。ここが大手にあたります。そして重要なのは、この堀と矢出沢川に囲まれた範囲の内側に、城下町までそっくり入っていたことです。つまり上田城の守るべき範囲は本丸ではなく、町を含めた一帯でした。惣構えと呼ばれるこの形は、小田原城や京の御土居など、この時代の各地で試みられています。ただし上田の場合、町が戦いの現場として実際に使われました。寄せ手を町へ引きこみ、折れ曲がった道で隊列を細切れにして横から討つ。上田城の二度の戦いで真田方が城壁の内側に閉じこもらなかったのは、町そのものが城の一部として設計されていたからです。

破却された城と、掘り返された堀

▽ よく語られる話

いま残っている上田城は仙石氏が建て直したものだから、真田昌幸の城とはまったくの別物である。

▼ 史実ではこうです

建物についてはそのとおりで、いま建つ櫓も石垣も仙石氏の時代のものです。ただし復興工事の中身は、真田時代に埋められた堀をもう一度掘り返すという作業が中心でした。曲輪の配置も堀の線も、昌幸が引いたものをほぼそのまま使っている。だから縄張という点で見るかぎり、いま城跡を歩く人は昌幸が設計した線の上を歩いていることになります。建物と縄張を分けて考えると、この城の見え方が変わってきます。

関ヶ原の後、昌幸と信繁が紀伊へ流されると、上田城は徹底的に壊され、堀も埋められました。徳川にとって二度も苦杯をなめた城ですから、形を残したくなかったのでしょう。徳川方についた長男の信之は城の修復を願い出ますが許されず、やがて松代へ移されます。代わって入った仙石秀久の子・忠政がようやく許可を得て、埋められた堀を掘り起こしにかかりました。ところが工事の途中で忠政が没し、以後は再開されていません。上田城に天守がないのはそのためです。

信之が広げた町

桜の季節の上田城跡に並ぶ櫓と櫓門

桜が咲く城跡に、櫓と櫓門が並んで建つ。石垣の上に載る建物の下を、多くの人が行き交っている。

昌幸の跡を継いだ信之は、大手の堀の外側へ町を広げました。父の代の惣構えが「守るための町」だったのに対し、信之が広げたのは「暮らしと商いのための町」です。戦がなくなれば、町は守る対象から育てる対象へ変わります。同じことは全国で起きていて、前田利長が高岡で町割りを定めたのも、家康が清洲の町ごと名古屋へ移したのも、城と町の関係が組み替わっていく時期の出来事でした。いまの上田の市街に残る道の形には、昌幸の惣構えと信之の拡張が二重に重なっています。

訪ね方 ― 縄張を歩いて確かめる

所在地は長野県上田市二の丸。日本100名城の二十七番です。この記事の内容を現地で確かめるなら、順路は少し変わります。まず城跡公園に入る前に、南側の尼ヶ淵へ回ってください。櫓が載る石垣の下に自然の崖が続いているのが見え、南面が最初から封じられていたことがわかります。次に二の丸の北側から西側へ回り、百間堀の跡をたどる。いまは道路や公園になっていますが、幅の広い低地がそのまま残っていて、水濠の規模が体でわかります。それから市街へ出て矢出沢川を探してください。城の北を流れ、北西で折れて千曲川へ向かうその流れが、外堀そのものです。最後に大手方面の町を歩き、道が何度も折れることを確かめる。ここまで歩けば、上田城が本丸だけの城ではなかったことがはっきりします。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

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〒386-0026 長野県上田市二の丸6263番地イ

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