大聖寺城:関ヶ原の戦いでは山口宗永が前田利長に攻められて籠城・自刃した大聖寺城【お城特集 日本の歴史】

大聖寺城/アクセス・場所・地図 関ヶ原の戦いでは山口宗永が前田利長に攻められて籠城・自刃した大聖寺城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
大聖寺城

【大聖寺城の説明】
大聖寺城は石川県加賀市にあった平山城である。
築城時期は鎌倉時代で狩野氏によって築かれたとされている。

戦国時代に入ると越前国の「朝倉宗滴」が加賀に侵攻し、大聖寺城は一日にして陥落した。永禄10年(1567年)には「堀江景忠」が一向一揆とともに「朝倉義景」に反旗を翻し、抗争が長引いたが足利義昭の斡旋により大聖寺城を焼き払うということで和議が成立した。

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天正3年(1575年)に入ると、織田信長は越前を平定し、その軍勢は加賀にも侵攻した。信長は「柴田勝家」に命じて日谷城と「大聖寺城」を修復させ「佐久間盛政」が城主に任命された。

盛政は翌天正5年(1577年)にかけて大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉景勝の南下に備えた。そして天正8年(1580年)、柴田勝家は本願寺勢力の「金沢御堂」を攻略し改めて「拝郷家嘉」を大聖寺城主にした。

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天正11年(1583年)に織田家の内紛で勃発した「賤ヶ岳の戦い」で勝家は羽柴秀吉に敗れ、丹羽長秀の与力で北ノ庄城の「溝口秀勝」が大聖寺城に4万4千石で入封した。

天正13年(1585年)に長秀が没した後も秀勝は大聖寺城にとどめられ、その後は「堀秀政」の与力となっている。慶長3年(1598年)に堀秀政の子「堀秀治」が春日山城に加増転封すると秀政も新発田城に転封された。

同年、小早川秀秋が「北ノ庄城」に入封し秀吉から付けられた付家老「山口宗永」が大聖寺城に6万3千石で配置された。翌年には秀秋が再び転封となりるが、山口宗永は大聖寺に残って秀吉の直臣となった。

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慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で宗永は西軍(石田三成)についたため、東軍の「前田利長」に攻められて大聖寺城は落城し、宗永・修弘親子は自刃した。その後は前田家の家臣が城代を務めたが、元和元年(1615年)の一国一城令のため廃城となった。

寛永16年(1639年)には「前田利治」が7万石を分与さられて大聖寺藩を立て、大聖寺陣屋を設けた。現在の大聖寺城跡は「錦城山公園」として整備されている。城の遺構としては曲輪、土塁の他、小堀遠州が手掛けた茶室「長流亭」が残っている。

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【大聖寺城・場所・アクセス】
〒922-0057 石川県加賀市大聖寺八間道55

【大聖寺城地図】



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