歴史ブログ– category –
-
歴史ブログ
方広寺の大仏とは:秀吉の京の大仏と、「国家安康」の鐘が招いた大坂の陣
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 方広寺の大仏(京の大仏)は、豊臣秀吉が京都の東山に造らせた、高さ約十九メートルの巨大な大仏です。奈良の大仏をしのぐ大きさを目指し、刀狩で集めた刀を釘にするという名目まで掲げて... -
歴史ブログ
豊臣水軍とは:九鬼嘉隆・脇坂安治・藤堂高虎、四国攻めの大船団から朝鮮の海まで
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 豊臣水軍とは、秀吉が天下統一と朝鮮出兵のために組織した海の軍勢です。中心になったのは、信長の鉄甲船で知られる九鬼嘉隆、賤ヶ岳の七本槍の脇坂安治と加藤嘉明、そして藤堂高虎や村上... -
歴史ブログ
豊臣秀長の家臣団とは:桑山重晴・藤堂高虎・吉川平介…百万石を支えた人びとと、その後
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 豊臣秀長の家臣団は、兄・秀吉から付けられた重臣と、秀長自身が見いだした家臣が組み合わさってできていました。筆頭家老の桑山重晴、のちに築城の名手となる藤堂高虎、四国攻めの船を差... -
歴史ブログ
竹中半兵衛とは:「最強の軍師」の実像と、黒田官兵衛との「二兵衛」
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 竹中半兵衛(重治)は、豊臣秀吉を支えた戦国の軍師です。わずかな手勢で主君の稲葉山城を乗っ取り、秀吉の下では調略で敵を味方に変え、三十六歳で陣中に病没しました。黒田官兵衛とあわ... -
歴史ブログ
秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか:秀吉を止める人が、四年で全員いなくなっていた
秀次事件で三条河原に引き出されたのは、若君四人、姫君一人、そして女性三十四人。あわせて三十九人である。秀次本人はすでに高野山で切腹していた。なぜ妻子まで、一人残らず殺す必要があったのか。秀吉の老いと溺愛のせいだとも、石田三成らによる派閥... -
歴史ブログ
駒姫とは:秀次と顔も合わせないまま、十五歳で三条河原に送られた最上義光の娘
駒姫(こまひめ)は、出羽の大名・最上義光の娘である。「東国一の美女」と噂され、その評判を聞いた関白・豊臣秀次に望まれて京へ送られた。ところが到着してまもなく秀次事件が起きる。駒姫は、秀次と一度も顔を合わせていなかった。それでも側室として... -
歴史ブログ
高橋努が演じる蜂須賀正勝(小六)とは:野盗の親分という嘘と、阿波一国を断った理由
蜂須賀正勝(はちすか まさかつ/通称・小六)(ころく)、のちの蜂須賀正勝は、秀吉を支え続けた腹心である。講談では野盗の親分として描かれ、矢作橋の上で若き日の秀吉と出会ったことになっている。どちらも作り話である。橋は当時まだ架かっていなかっ... -
歴史ブログ
衆徒とは何者か:寺に属して武装した僧と、大和に戦国大名が育たなかった理由
衆徒(しゅと)とは、大寺院に属しながら武装した僧の身分である。とくに大和では、この衆徒と、春日社に属する国民(こくみん)が、国の武力そのものだった。大和には守護大名が育たなかった。守護の役目を興福寺が持っていたからである。土地の多くが寺... -
歴史ブログ
関白とは何か:天皇に上がる文書を先に見る権利と、七百年動かなかった五つの家
関白(かんぱく)は、成人した天皇を補佐して政務にあたる役職です。天皇が幼いときに代わって政を執る摂政とは、そこが違います。決めるのはあくまで天皇で、関白は決裁者ではありません。ではどこに実権があったかというと、「内覧」にあります。太政官... -
歴史ブログ
藤堂高虎とは:七度主君を替えた男が、最初に築いたのは秀長の和歌山城だった
藤堂高虎(とうどう たかとら)は、近江に生まれ、生涯に七度も主君を替えた武将である。そのため江戸時代以来、変わり身の早い男として語られてきた。だが経歴を順に追うと、主君を捨てたというより、仕えた家が次々に絶えていることが分かる。二十一歳で... -
歴史ブログ
四国国分とは:秀吉は四国をどう分けたのか ─ 土佐一国の長宗我部と、伊予三十五万石の小早川
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ 四国国分(しこくこくぶん)とは、天正十三年八月、四国攻めのあとに秀吉が四国の土地を配り直した処置である。結果... -
歴史ブログ
吉川平介とは:『豊臣兄弟!』で松岡広大が演じる秀長の家臣、四国攻めの船を差配した男が熊野の木で身を滅ぼすまで
吉川平介(よしかわ へいすけ)は、豊臣秀長の家臣です。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では松岡広大さんが演じ、第36回「姫若子と鬼若子」から、もとは商人の新しい家臣として登場しています。船と物資の扱いに通じた実務の人で(信長のもとで伊勢大湊の船奉行... -
歴史ブログ
於義丸(おぎまる)とは:結城秀康となった家康の次男が「養子」という名で秀吉に送られ、越前六十八万石に行き着くまで
於義丸(おぎまる)は、徳川家康の次男で、のちの結城秀康(ゆうき ひでやす)です。「於義伊(おぎい)」とも書かれ、「おぎまる」「おぎい」と「結城秀康」は同じ人物です。小牧・長久手の講和で、十一歳のときに秀吉のもとへ送られました。ただし肩書き... -
歴史ブログ
丹羽長秀とは:「米五郎左」と呼ばれた男が、安土城を築き、清須会議で秀吉を選ぶまで
この記事のポイント 丹羽長秀は織田信長の重臣で、「米五郎左」と呼ばれた実務の人 安土城の普請総奉行をつとめ、若狭一国を任された 清須会議で秀吉に付き、賤ヶ岳のあと越前と加賀を得て百万石を超える大大名になった 信長四天王のうち、勝家も光秀も滅... -
歴史ブログ
十河存保とは何者か:阿波と讃岐を失い、秀吉を頼り、戸次川で長宗我部信親と同じ日に倒れた男
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ この記事のポイント 十河存保は三好実休の子で、讃岐の十河家を継ぎ、兄の死後は阿波の勝瑞城に入った 長宗我部元親... -
歴史ブログ
豊臣兄弟!第36回「姫若子と鬼若子」史実解説|四国攻めはなぜ二か月で終わったのか
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ この記事のポイント天正十三年(一五八五)の四国攻めは、六月に始まり八月には決着している総大将は羽柴秀長。秀吉... -
歴史ブログ
秀吉は秀次に腹を切らせるつもりはなかった?『医学天正記』から読み解く秀次事件 ── 悲劇はなぜ起きたのか
この記事についてこの記事は、曲直瀬玄朔の診療記録『医学天正記』に残る記述と、それを取り上げたNHK『歴史探偵』の見立て、そして研究者の説をもとに、秀吉と秀次がそれぞれ何を考え、どう動いたのかを読み解いたものです。秀次事件の真相を断定するもの... -
歴史ブログ
谷忠澄とは:長宗我部元親に降伏を説いた土佐神社の神主 ─ 一宮城の籠城と、信親の亡骸を迎えた使者
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ この記事のポイント谷忠澄(たに ただすみ、1534〜1600)は、長宗我部元親に仕えた家臣です。通称は忠兵衛と伝わり... -
歴史ブログ
可児才蔵とは:笹の才蔵と呼ばれた理由、関ヶ原の十七の首、そして秀次を見捨てた「雨降りの傘也」
この記事のポイント 白山林で敗走中、馬を持たない秀次(信吉)は家臣・可児才蔵に馬を求めた 才蔵は「雨降りの傘也」と言い放ち、主君を置き去りにして去ったと伝わる この一件が秀吉の耳に入り、才蔵は秀次の下を追われることになった その後も複数の主... -
歴史ブログ
鳥取城の渇え殺し 完全ガイド|秀吉の兵糧攻めと吉川経家の最期をこれ一つで理解
この記事のポイント鳥取城の渇え殺し(かつえごろし)は、天正9年(1581)、羽柴秀吉が因幡の鳥取城を兵糧攻めで落とした戦いです。「鳥取の飢え殺し」とも呼ばれます前年の第一次攻撃で城主の山名豊国はいったん降りましたが、家臣たちが豊国を追い出し、...
