歴史ブログ– category –
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松野主馬(松野重元)とは:小早川秀秋の寝返りに従わず、戦わずに関ヶ原を去った男
関ヶ原で小早川秀秋が寝返ったとき、従わなかった家臣がいました。裏切りにも加わらず西軍としても戦わなかった松野主馬の選択と、その後の五十五年をまとめました。 -
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高野山はなぜ秀吉に焼かれなかったのか:根来寺は二日で焼け、高野山は木食応其の交渉で残った
天正13年(1585)の春、秀吉と秀長の十万の軍勢が紀伊に攻め込むと、鉄砲で知られた根来寺は二日で焼け落ちました。ところが、同じ紀伊にあって僧兵を抱え、広い寺領を持っていた高野山は、一度も戦わずに生き残ります。同じ紀伊の、同じように武装した寺... -
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豊臣秀長はどう出世したのか:田を耕していた小一郎が百万石になるまでと、父の違う四人のきょうだい
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の小一郎は、はじめ村で田を耕して暮らし、兄の藤吉郎に半ば無理やり連れ出されて武士になります。では実際の秀長は、どこから出発して、どのように出世し、どの時点でどれだけの領地をもらったのでしょうか。この記事では、秀吉... -
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城の基本用語:曲輪・堀・土塁・虎口・馬出をイラストで読み解く
城跡の案内板には、曲輪、虎口、馬出、土塁、堀切といった言葉が並びます。どれも「敵をどこで止めるか」を考えた工夫の名前です。この記事では、天守の残らない土の城でも歩くのが楽しくなるように、基本の用語をイラストでまとめました。この絵は、当時... -
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関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列:どれがいちばん偉いのか、清盛・信長・秀吉・家康の官職で読み解く
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 朝廷の役職でいちばん上にいるのは関白です。関白は大臣たちの上に立つ特別な役で、その下に太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣と続きます。左大臣と右大臣では左のほうが上です。ただし太... -
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もし豊臣秀長があと十年生きていたら:朝鮮出兵・秀次事件・関ヶ原はどう変わったのか
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 もし豊臣秀長があと十年生きていたら、豊臣政権は続いていたのか。結論からいえば、朝鮮出兵そのものを止められたかは疑わしいものの、秀次事件のような身内の粛清は避けられ、秀吉の死後... -
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豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか:養子・秀保の十七歳の死と、大和豊臣家の断絶
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 豊臣秀長の家は、秀長の死からわずか四年で絶えました。秀長には跡を継ぐ男子が育たず、姉・ともの三男である秀保(ひでやす)を養子に迎えましたが、その秀保は十七歳で、大和の山奥・十... -
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特別展「豊臣兄弟!」江戸東京博物館|会期・見どころと、展示をもっと楽しむための歴史解説
大河ドラマ「豊臣兄弟!」にあわせた特別展「豊臣兄弟!」が、東京・両国の江戸東京博物館で開かれています。会期は9月15日から11月8日まで。名古屋の徳川美術館、大阪歴史博物館を巡回してきた展覧会の最後の会場で、江戸東京博物館のリニューアル記念展... -
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黒田長政とは:関ヶ原を「戦う前に」勝たせた官兵衛の息子 ─ 小早川秀秋の寝返りと、福岡五十二万石
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 黒田長政は、黒田官兵衛(如水)の嫡男で、関ヶ原の戦いで東軍を勝利に導いた立役者のひとりです。少年時代は松寿丸の名で信長への人質となり、父の幽閉で殺されかけたところを竹中半兵衛... -
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戸次川の戦いとは:仙石秀久の渡河、長宗我部信親と十河存保の戦死 ─ 大敗した者が返り咲いた明暗
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ ※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、天正十... -
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香宗我部親泰とは:長宗我部元親の弟、阿波を攻め信長と渡り合った外交役と、長門での死
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ ※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)は、土佐の... -
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秀吉はお市の方が好きだったのか:恋物語の真偽と、大河ドラマで秀長が想いを寄せる理由
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 「秀吉はお市の方に想いを寄せていた」という話は、戦国の恋物語としてよく語られます。お市を勝家に取られたことが賤ヶ岳の戦いの一因になった、お市の娘の茶々を側室にしたのは母の面影... -
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お市の方とは:信長の妹は誰に嫁ぎ、なぜ柴田勝家と北ノ庄城で最期を迎えたのか
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 お市の方は、織田信秀の娘で、織田信長の妹です。はじめ北近江の浅井長政に嫁いで茶々・初・江の三人の娘を産みましたが、兄の信長と夫の長政が争い、小谷城の落城で夫を失います。本能寺... -
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豊臣兄弟!第37回「秀長の国」史実解説|秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか
この記事のポイント天正十三年(一五八五)、秀吉が関白になった年に、秀長は大和・紀伊・和泉の三か国、百万石余りを与えられた秀長が入った郡山城は、もともと筒井順慶が築いた城。筒井家は伊賀へ移された大和は興福寺など寺社の力が強い国。秀長は武装... -
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秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか:興福寺の寺領を五分の一に、多武峰を郡山へ移した「大和大納言」
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 豊臣秀長が天正十三年(1585年)に入った大和は、興福寺や春日社、多武峰などの寺社が広大な領地を持ち、僧兵や寺に仕える武士が力をふるう、全国でも指折りの治めにくい国でした。秀長は... -
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滝川一益とは:信長の重臣はなぜすべてを失ったのか 蟹江城の一発逆転と、越前大野での最期、子孫のその後
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 滝川一益は、織田信長の重臣として伊勢攻略や武田攻めで活躍し、一時は上野一国を任されて関東の押さえとなった武将です。ところが本能寺の変で運命が一変し、北条軍に敗れて伊勢へ逃げ帰... -
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越前松平家はなぜ二度も改易されたのか:結城秀康の子・松平忠直と孫・光長、それでも家が続いた理由
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 越前松平家は、徳川家康の次男・結城秀康に始まる家です。秀康は越前六十八万石の大名になりましたが、跡を継いだ子の松平忠直は元和九年(1623年)に改易されて豊後へ流され、忠直の子で... -
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秀吉に処刑・切腹させられた人びと:前野一族・千利休・秀次から神子田正治、石川五右衛門まで
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 豊臣秀吉は、天下統一の過程で多くの武将や人びとを処刑し、あるいは切腹に追いこみました。戦に敗れた城主の切腹、臆病や命令違反を責められた古参の家臣、利休の高弟・山上宗二、不正を... -
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秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのか:吉川平介・千利休・豊臣秀次、連座の境目
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 豊臣秀吉の処罰は、同じ天下人の命令でも、家族にまで及ぶときと及ばないときがありました。熊野の材木の代金を着服した吉川平介は首を晒されながら、妻子は「罪に問わない」とされました... -
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多聞院日記とは:興福寺の僧・英俊が書き残した戦国と、秀長の大和
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 『多聞院日記』は、奈良の興福寺の塔頭・多聞院の僧たちが、戦国時代から安土桃山時代にかけておよそ百年以上にわたって書き継いだ日記です。中心となった書き手は英俊という僧で、六十年...
