横須賀城(よこすかじょう)は、徳川家康が武田方の高天神城を攻めるために築かせた城です。丸い川原石を積み上げた玉石垣で知られ、その景色は他の城ではまず見られません。築かれたころ、城のすぐ南には入り江が入りこみ、船で兵と物資を運びこめる湊を備えていました。今は田と町にかこまれた城跡ですが、海とつながっていた時代の城です。
- 高天神城を締め上げるための前線基地として築かれた城
- 丸い川原石を積んだ玉石垣が全域に残り、全国でも珍しい
- 築城時は入り江に面し、船で兵糧を入れられる湊の城だった
- 地震で海が退いたのち、城は内陸の城に姿を変えた

丸い石を積んだ石垣が段を重ね、そのあいだを階段が登る。石の形がそろっていないぶん、面が波打って見える。
丸い石で積まれた石垣
横須賀城の石垣は、角の立った割石ではなく、川を流れて丸くなった石でできています。大きさもまちまちで、積み上げると表面がでこぼこと波打ちます。角石で稜線を通し、面をそろえる近世城郭の石垣とは、見た目がまるで違います。
丸い石は積みにくく、ずれやすいのが普通です。それでもこの石が使われたのは、近くを流れる川と海岸に、この石が大量にあったからです。城の普請では、手に入る材料が縄張と同じくらい形を決めます。切り出して運ぶ石がなければ、足もとの石で積む。横須賀城の石垣は、その原則がそのまま姿になったものです。

間近で見ると、ひとつひとつが人の頭ほどの丸い石。すきまに小石をかませて固定してある。奥に階段と上段の石垣が続く。
高天神城を締め上げるための城
遠江をめぐる徳川と武田の争いは、高天神城の奪い合いに集約されました。武田信玄の死後、勝頼はこの城を落として遠江の東半分を押さえます。家康はこれを力ずくで攻め返すのではなく、周囲に砦を築いて包囲し、補給を断つ方法をとりました。横須賀城は、その包囲網の本営にあたる城です。
築城を命じられたのは大須賀康高でした。城を構えると同時に、高天神城を取りかこむように六つの砦(高天神六砦)が置かれ、街道と間道が押さえられます。城には海から兵糧が入り、砦には城から人が送られる。この仕組みが働いたことで、高天神城は孤立しました。天正九年(一五八一)、城兵は打って出て全滅し、城は落ちます。
武田方にとっては、援軍を出せなかったことが致命的でした。勝頼が高天神を見殺しにしたと受け取られ、遠江・駿河の国衆の信頼が崩れます。城ひとつの攻防が、武田家の終わりを早めたと評されるのはこのためです。二俣城や掛川城とあわせて見ると、この地域の城がどれも街道と川の押さえだったことがわかります。
海につながっていた城

草地の向こうに石垣の段が重なる。かつてこの方向に入り江が広がり、城のすぐ近くまで船が入っていた。
城主の交代と、城下のその後
高天神城が落ちて役目を終えたあとも、横須賀城は残りました。大須賀氏が二代にわたって城主をつとめ、その後は松平家、井上家、本多家と替わります。最後に入ったのが西尾氏で、二万五千石の横須賀藩として明治維新を迎えました。城主がめまぐるしく替わったのは、この城が譜代大名の任地として回されていたためです。
城下には、三熊野神社の祭礼として知られる祭りが伝わり、今も大きな山車が出ます。城は明治に取り壊されましたが、城跡は国の史跡に指定され、玉石垣が積み直されて往時の姿に整えられました。石垣の一部は、当時のまま残っている区間もあります。
横須賀城跡の訪ね方
城跡は横須賀城跡公園として開かれ、本丸跡まで階段で登れます。上に立つと、南へ向かって開けた低地が見わたせます。入り江があったのはその方向です。城の北には三熊野神社と城下町の通りがあり、あわせて歩けば一時間ほど。
掛川市の中心部からは車で三十分ほどで、掛川城や高天神城と結ぶ行程が組みやすい位置にあります。高天神城の山に登ってから横須賀城に下りると、包囲する側とされる側の距離感が体でわかります。
所在地:〒437-1304 静岡県掛川市西大渕西田町
駿府城跡:家康が三度暮らした城と、隠居城と呼ばれながら江戸と並んだ大御所の政庁
今川館に始まり、大御所家康の政庁となった城。発掘で豊臣時代の石垣が現れました。
横須賀藩 /西尾家2万5千石:西尾忠篤 譜代大名として佐幕派・尊皇派に分裂したが戊辰戦争時は尊皇で統一した横須賀藩
横須賀城の地を治めた横須賀藩 が、幕末をどう生きたかをまとめています。

