七尾城跡:上杉謙信が一年攻めあぐねた五大山城と、内側から開いた門

七尾城:能登守護職畠山氏が治め戦国時代には織田家と上杉氏が激しく激突した七尾城

七尾城は、能登の守護だった畠山氏が石動山系の尾根に築いた巨大な山城です。城域は南北およそ二・五キロ、東西およそ一キロにおよび、月山富田城や観音寺城と並んで日本五大山城に数えられてきました。この城が知られているのは、上杉謙信が一年近く攻めあぐねたからです。ただし最後に城が開いたのは、謙信が力で押し切ったからではありません。城の中が二つに割れ、一方が門を開けた。能登畠山氏は、外から攻められる前にすでに内側から壊れていました。

この記事のポイント
  • 七つの尾根に曲輪を並べた、日本五大山城のひとつ
  • 七代・畠山義総の代に京の文化が流れこみ、七尾は小京都と呼ばれた
  • 義総の没後、家臣団が当主を立てたり退けたりする「七人衆」体制になった
  • 上杉謙信の一年にわたる包囲は、力攻めではなく内応によって決着した
  • 前田利家は山を下り、平地の小丸山城へ移って七尾城は廃城になった
目次

七つの尾根に広がった城

七尾城跡に残る段状に積み重なった石垣と石段

段になって積み重なる石垣と、その脇を登っていく石段。自然石をそのまま積んだ野面積みで、上端は苔と草に覆われている。

「七尾」という地名は、城が築かれた山に七つの尾根が延びていたことに由来すると伝わります。その尾根のひとつひとつに曲輪や砦を置いていったため、城域は南北およそ二・五キロという途方もない広さになりました。本丸・二の丸・三の丸・西の丸と続く主要な曲輪だけでなく、尾根の先まで削平地が点々と続いています。城というより、山ひとつが要塞化されていたというほうが近いでしょう。写真のように石垣も各所に残っていて、とくに桜馬場と呼ばれる区画の石垣は五段に積み重なり、七尾城で最大の規模を誇ります。観音寺城が繖山の全山に千を超える曲輪を並べたのと同じ発想で、守護の家が家臣団ごと山に住むという中世の城の形が、ここにも表れています。同じく五大山城に数えられる月山富田城とあわせて見ると、この時代の山城がどこまで大きくなったかがわかります。

小京都と呼ばれた能登

城を築いたのは能登守護の畠山満慶で、はじめは砦程度の規模にすぎず、政務をとる居館は麓の府中に置かれていました。山の上が本格的な政庁になるのは、七代当主・畠山義総の代からです。義総は京から公家や学者、僧を招き、連歌や和歌の会をひらき、書物を集めました。戦乱の京を離れた文化人にとって、能登は安全で豊かな避難先だったのです。七尾が小京都と呼ばれるようになったのはこのころで、いま七尾に残る青柏祭や城下の町並みの起源も、この時代にさかのぼります。山の上に政庁を移したのも義総の判断でした。文化を呼びこむことと、山に籠もる備えを固めることが同時に進んだ。矛盾しているようですが、戦国の大名にとってはどちらも家を保つための手段でした。

家臣が当主を立てたり降ろしたりした「七人衆」

七尾城跡の斜面に沿って続く低い石垣と杉木立

斜面に沿って細長く続く低い石垣。杉木立の下に、曲輪の縁だけが線になって残っている。

義総が没すると、能登畠山氏はたちまち傾きます。次の当主たちは家中を抑えきれず、実権は有力家臣の合議体に移りました。これが七人衆と呼ばれる体制です。遊佐、温井、長、三宅といった家が並び、当主は彼らの都合で立てられ、都合が悪くなれば隠居させられる。当主が家臣の手にかかって命を落とすことすらありました。似た構図は近江の六角氏にもあって、観音寺城でも家臣がつくった分国法に当主が署名させられています。守護という古い権威が、実力を持った家臣団に食われていく。戦国のなかばに各地で起きたことが、能登では極端な形で進みました。そしてこの家中の分裂が、のちに城の運命をそのまま決めることになります。

上杉謙信の包囲と、開いた門

七尾城跡の本丸跡に立つ案内板

本丸跡に立つ案内板。七尾城跡の中心となる曲輪で、東西五〇メートル、南北四〇メートルあり、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成すると記されている。

天正四年、越後の上杉謙信が能登へ攻め入りました。七尾城は山の上に籠もって耐え、包囲は年をまたいで続きます。難攻不落と呼ばれたこの城は、力ずくでは落ちませんでした。ところが城内では、徹底抗戦して織田の援軍を待つべきだという長続連と、上杉に降るべきだという遊佐続光・温井景隆が激しく対立していました。長く籠城すれば城内に病も飢えも広がります。その消耗のなかで、遊佐らは謙信に通じ、城門を開けた。抗戦を唱え続けた長一族は城内で討たれました。

▽ よく語られる話

軍神と呼ばれた上杉謙信が、難攻不落の七尾城をついに力で攻め落とした。

▼ 史実ではこうです

謙信は一年近くこの城を攻めきれていません。決着をつけたのは城内の内応で、遊佐続光らが門を開いたことで七尾城は落ちました。山城としての備えはむしろ機能していたわけです。もうひとつ、謙信が七尾城で「霜は軍営に満ちて秋気清し」と詠んだという有名な漢詩の逸話がありますが、これを謙信の作とするには疑問が多く、後世につくられたものとする見方が有力です。武将の人物像を彩る話は後から足されることが多いので、そこは分けて考えたほうがよいでしょう。

このとき、長続連は子の長連龍を織田方へ走らせて援軍を求めていました。要請を受けた柴田勝家の軍は加賀へ進みますが、七尾城がすでに落ちたことを知らないまま手取川で謙信の軍とぶつかり、大きな損害を出して退いています。城が一日早く落ちたか遅かったかで、この戦の形はまるで変わっていたはずです。柴田勝家にとっては、生涯でも数少ない完敗のひとつでした。

謙信の急死と、織田方への逆転

七尾城跡の本丸に立つ細長い石碑と、遠くに連なる山並み

本丸跡に立つ細長い自然石の碑。芝の広がる曲輪の向こうに、能登の山並みが幾重にも連なっている。

七尾城を手に入れた謙信ですが、その天下は長く続きませんでした。翌々年に春日山城で急死し、跡目をめぐって養子二人が争う御館の乱が起こります。上杉家は内へ内へと向かい、能登を保つ余力を失いました。この空白を突いて織田方が能登を回復し、七尾城には菅屋長頼が城代として入ります。城を開けた遊佐続光は、のちに織田方によって処断されました。門を開いて家を守ったつもりが、その判断そのものが咎められたことになります。上杉家が能登から退かざるをえなかった経緯は、御館跡の記事で追えます。一人の武将の死が、遠く離れた城の持ち主まで変えてしまう。戦国の終盤はそういう連鎖の連続でした。

前田利家はなぜ山を降りたのか

能登を与えられたのは前田利家でした。ところが利家は、この壮大な山城に入りませんでした。小丸山に新しい城を築いて、そちらへ移ったのです。理由ははっきりしています。山城は守るには良いが、町の発展にも物流にも向かない。七尾城は港からも街道からも離れた山の上にあり、政庁として使うには不便すぎました。戦国が終わりに近づくと、城に求められる役割が「籠もって耐える」から「町と国を治める」へ移っていきます。利家はその転換をいち早く実行しました。同じ前田家が後に築いた高岡城も、平地で町割りとセットになった城です。能登で利家が戦った末森城の戦いのころには、もう山城の時代は終わりかけていました。こうして七尾城は使われなくなり、廃城となります。そして誰も手を入れなかったからこそ、石垣も曲輪も戦国のままの形で残りました。

本丸に立つ ― 石垣が伝える五大山城の威容

七尾城跡の本丸に立つ石碑を見上げる

本丸跡に立つ石碑を見上げる。細長い自然石がそのまま碑になっていて、足元は芝、背後は七尾湾へ落ちていく斜面。

本丸跡の案内板には、この曲輪が東西五〇メートル、南北四〇メートルで、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成すると記されています。石垣は戦国期の山城に多い野面積みで、北側は三段に組まれているとも書かれている。自然石をほとんど加工せずに積むこの技法は、築城当時の姿をそのまま残しているということでもあります。安土城より早く石垣を積んだ観音寺城と同じで、石を高く美しく積む技術が広まる前の、力ずくで石を組み上げた壁です。本丸に立つと七尾湾が見下ろせます。港と街道を同時に監視できるこの眺めこそ、畠山氏がこの山を選んだ理由でした。

訪ね方と見どころ

所在地は石川県七尾市古城町。日本100名城の三十四番です。本丸近くまで車道が通っていて、駐車場から本丸までは歩いて数分なので、山城としては訪ねやすいほうに入ります。ただし、それだけで帰ってしまうともったいない。見るべきは桜馬場の五段の石垣と、調度丸から本丸へ上がる石段です。写真のように石垣が段になって重なる眺めは、七尾城でいちばんの見どころで、ここに立つと五大山城と呼ばれてきた理由が体でわかります。時間があれば、麓から大手道を登ってみてください。曲輪がいくつも連なる様子を、攻める側の視点でたどれます。麓には七尾城史資料館があり、出土品や城の復元模型が見られるので、先に寄っておくと山の上での解像度が上がります。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

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七尾城跡・場所とアクセス

〒926-0033 石川県七尾市古城町

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