松前藩(館藩)/松前家1万石:松前修広 正義隊の藩政掌握により新政府軍へ寝返った松前藩【幕末維新写真館】

松前藩(館藩)/場所・アクセス・地図 松前家1万石:松前修広 正義隊の藩政掌握により新政府軍へ寝返った松前藩【幕末維新写真館】

【藩名】
松前藩(館藩)

【説明】
明治2年(1869年)6月、14代藩主「松前修広」は「版籍奉還」にて館藩知事に任じられた。明治4年(1871年)7月14日には「廃藩置県」で館藩は廃藩となり館県となる。政庁は完成前に旧幕府軍との間で「箱館戦争」が始まったため、移転前と同じ「福山城」にあった。

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奥羽越戦争の時点では「奥羽越列藩同盟」に加盟していた松前藩だったが、勤王派の「正義隊」が藩政を掌握して新政府軍に寝返った。函館には新政府軍の函館府が置かれ「清水谷公考」が函館府知事に就任していた。松前藩も新政府軍の一翼を担い函館府に兵を入れ、榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷攻略を試みるとこれと対峙した。

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しかし、洋式装備で武装された旧幕府軍の戦力は大きく、函館府知事「清水谷公考」は榎本軍に攻撃される前に函館を脱出し新政府軍の蝦夷攻略の拠点となっている弘前へと逃亡した。一方、松前藩は松前城に籠って徹底抗戦の姿勢を見せて旧幕府軍と交戦した。大鳥圭介率いる伝習隊や土方歳三率いる新選組の生き残りや仙台藩「額兵隊」などからの猛攻を受けて松前城は落城、松前兵は館城へと退いた。

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これを追って旧幕府軍は館城をも攻略し、ついに松前藩兵は弘前へと退却した。その後、戦力を十分に蓄えた新政府軍は松前藩兵を先鋒に約2千の兵を蝦夷地へ送りこんだ。参謀には薩摩藩の「黒田清隆」と長州藩の「山田顕義」が就任し徐々に函館五稜郭を包囲し、榎本以下旧幕府軍を降伏へと追い込んだ。

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松前藩の戦後処理では、旧幕府軍に協力した者を逮捕し裁判の上で処分した。処分された者は町人、武士に問わず90余名にも及び、町内引廻しのうえ斬首されたものは19名であった。

明治4年(1871年)の廃藩置県で館藩は廃藩となり、その後は「北海道開拓使」として黒田清隆が北海道の開拓に従事した。






【松前藩・場所・アクセス】
〒049-1511 北海道松前郡松前町松城144

【松前藩地図】



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