岐阜城はなぜ廃城になったのか:関ヶ原の前哨戦で落ちた信長の孫と、加納城へ移された資材

岐阜城:織田信長が天下布武の足がかりにした美濃の岐阜城(旧名:稲葉山城)前編

岐阜城は難攻不落の城と呼ばれてきました。ところが実際には、何度も落ちています。斎藤道三の子孫が守っていたときに織田信長に落とされ、信長の孫が守っていたときには関ヶ原の前哨戦でわずか一日ほどで落ちました。そして戦いのあと、徳川家康はこの城を廃城と決めます。城を壊し、資材を運び出して、平地に加納城を築かせた。信長が天下布武を掲げた城は、関ヶ原の翌年に役目を終えました。

この記事のポイント
  • 関ヶ原の前哨戦で、織田秀信の守る岐阜城は短時間で落ちた
  • 難攻不落と言われながら、この城は歴史上何度も落城している
  • 山城は大人数の長期籠城に向かないという弱点があった
  • 家康は廃城を決め、資材を移して平地に加納城を築かせた
  • 山麓には信長が客を迎えた壮麗な御殿があり、発掘が進んでいる
目次

関ヶ原の前哨戦 ― 信長の孫が守った一日

金華山の緑の頂に小さく見える岐阜城の天守

深い緑に覆われた山の頂に、天守が小さく載っている。麓から見上げると、城がどれほど高いところにあるかがわかる。

関ヶ原のとき、岐阜城主は織田秀信でした。信長の嫡孫、清洲会議で三法師として担ぎ出されたあの子どもです。秀信は石田三成の挙兵に応じて西軍につきました。ところが東軍の進軍は速く、福島正則、池田輝政らの軍勢が木曽川を渡って攻め寄せます。籠城した秀信は、山の険しさを頼りにしましたが、圧倒的な兵力差の前に城はあっけなく落ちました。秀信は弟とともに自刃しようとしたところを輝政に説得されて降伏し、高野山へ送られます。のちにそこも追われ、二十六歳で世を去りました。信長の血を引く嫡流が、信長の城で終わったことになります。関ヶ原の戦いの本戦はこの半月ほど後で、岐阜城の早い落城は東軍の進撃路を開き、西軍の計算を大きく狂わせました。城を攻めた福島正則にとっては、かつて仕えた織田家の血筋を自ら攻め落とすという戦でもありました。

難攻不落の城が、なぜ何度も落ちたのか

▽ よく語られる話

岐阜城は金華山の頂に築かれた難攻不落の名城である。

▼ 史実ではこうです

険しいことは間違いありませんが、この城は歴史上くり返し落ちています。斎藤氏の時代にも攻められ、織田信長に落とされ、信長の死後も主が替わり、関ヶ原の前哨戦でも短時間で陥落しました。理由は山城という形式そのものにあります。山の上は平坦地が限られるため、大人数を収容できません。水も兵糧も運び上げねばならず、長期の籠城には向かない。さらに戦国末期の攻城戦は数万単位で動くようになっていて、山を包囲されてしまえば補給が絶たれます。険しさは攻め手の足を遅らせますが、それだけでは城は守れない。守るには、麓の城下や周囲の支城とあわせた仕組みが要りました。

同じことは各地で起きています。観音寺城は家臣が散っていたために戦わずに空になり、七尾城は一年耐えた末に内側から門が開きました。山城が本当に強かったのは、攻め手も数千規模で動いていた時代までです。金山城が山上に大きな池を築いて水を確保していたように、備えを尽くした城でさえ、天下統一の軍勢の前には長くもちませんでした。

山麓の御殿 ― 信長が客を通した場所

岐阜城を考えるとき、山の上だけを見ていては半分しかわかりません。信長がこの城で力を入れたのは、むしろ麓のほうでした。金華山のふもとには千畳敷と呼ばれる広大な御殿があり、そこへ至る道の両側には石を積んだ塀がめぐらされていました。御殿は四層ともいわれる壮麗なもので、南蛮の様式を取り入れていたと伝わります。宣教師ルイス・フロイスがここを訪れて、庭や部屋のありさまを書き残しました。つまり信長は、山上を戦のための城とし、麓を人に見せるための場としていたわけです。この二本立ての発想は、のちの安土城で、ひとつの山の上に統合されることになります。御殿跡は岐阜公園の一部として整備され、発掘調査が続いています。庭園の遺構や金箔瓦が出土していて、フロイスの記述が誇張ではなかったことが裏づけられつつあります。

家康はなぜ廃城にしたのか

加納城跡に残る石垣と広場

雨に濡れた広場の奥に、草木に覆われた石垣が長く続いている。建物はなく、町の一角に城跡だけが残る。

関ヶ原の翌年、家康は岐阜城の廃城を決めました。そして娘婿の奥平信昌に十万石を与え、平地に加納城を築かせます。写真がその加納城跡で、いまは石垣と広場が残るだけですが、この城には岐阜城から運び出された資材が使われました。天守も移されたと伝わります。家康の判断には、いくつもの理由が重なっています。まず山城はもう時代に合わない。政務にも物流にも不便で、城下町を広げる余地がない。次に、木曽川の渡河点を押さえるには平地の城のほうが機能する。そして、これが小さくない理由ですが、岐阜という地名そのものが信長の記憶を背負っていました。この名は信長が命名したもので、天下布武を掲げた場所の象徴です。その城を残しておく理由が、徳川にはありませんでした。城を消し、名を持つ土地の格を落とし、新しい城を新しい名で築く。加納城へ移封された大久保家のように、加納は以後、譜代大名が入れ替わりで治める藩になります。

いまの天守と、金華山

雪をかぶった岐阜城の天守

雪をまとった木々の向こうに、白壁の天守が青空を背にそびえる。屋根と軒先にも雪が残っている。

いま金華山の頂に建つ天守は、昭和に鉄筋コンクリートで再建されたものです。三層四階で、信長の時代の天守がどんな姿だったかを伝える資料は残っていないため、復元ではありません。それでも麓から見上げたとき、山の上に城が載っているという風景そのものが、この土地の記憶を保ち続けてきました。長良川の鵜飼、金華山のロープウェー、そして天守。岐阜という町の顔は、いまもこの城です。信長がこの城に入って地名を改め、天下布武の印を使いはじめてから、実際に天下が定まるまで三十数年かかりました。その最後の局面で、この城は信長の孫とともに落ちています。城の来歴としては、これ以上ないほど因果のそろった終わり方でした。

岐阜城の天守と幟

金華山の山頂に建つ天守。参道には幟が並ぶ(筆者撮影)

訪ね方と見どころ

岐阜城の天守を見上げる

見上げた天守。白壁に金色の飾り金具が光り、最上層には高欄がめぐらされている。

所在地は岐阜県岐阜市金華山天守閣。日本100名城の三十九番です。金華山ロープウェーで山上まで三分ほど、そこから天守までは歩いて数分。歩いて登る道も複数あり、いちばん短い馬の背登山道はかなりの急坂です。見どころは、まず天守最上階からの眺め。長良川が濃尾平野を蛇行していく様子が一望でき、信長がここから何を見ていたかがわかります。次に山上の石垣。復元建物の陰にありますが、当時の石積みが各所に残っています。そして忘れずに、麓の岐阜公園にある信長居館跡へ。発掘調査の成果が現地で解説されていて、山上より麓のほうが信長の城づくりを伝えていることに気づくはずです。時間があれば加納城跡まで足を伸ばすと、この城のたどった結末まで見届けられます。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

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岐阜藩/織田家13万3千石:織田秀信 織田信長の嫡孫であり関ヶ原の前哨戦で西軍に与したため落城・廃藩

岐阜城の地を治めた岐阜藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。

岐阜城・場所とアクセス

〒500-0000 岐阜県岐阜市金華山天守閣18

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