【城名】
延岡城
【延岡城の説明】
延岡城は宮崎県延岡市本小路に築かれた平山城です。
高橋元種が慶長6年(1601年)に築城を始め、慶長8年(1603年)に完成しました。

元種は元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名「秋月種実」の次男として生まれます。天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となり、天正15年(1587年)に勃発した豊臣秀吉の九州征伐ではいち早く降伏し、日向延岡に5万3千石を与えられました。

元種は城下町の整備に力を注ぎ、現在の延岡の町の原形がこの時に作られました。しかし、慶長18年(1613年)に罪人を匿ったとして改易され、その後は有馬氏・三浦氏・牧野氏と城主が続き、最後に内藤氏の支配で幕末を迎えた。


なお延岡城には、ある石をはずすと一気に全壊し一度に千人の敵兵を殺すことができるという石垣があり「千人殺し」と呼ばれています。現在の延岡城跡は城山公園として整備され、また復元された北大手門や石垣などの遺構が残っています。

「千人殺し」と呼ばれる高石垣
延岡城でいちばん知られているのが、本丸へ上がる途中にある高石垣です。高さおよそ十九メートル、長さは七十メートルに及びます。要の石をひとつ外すと石垣が一気に崩れ、攻め上がってきた敵を一度に千人倒せる。そんな言い伝えから「千人殺しの石垣」と呼ばれてきました。実際にそんな仕掛けがあったかは分かりませんが、下から見上げたときの圧迫感は、その伝承が生まれたのも無理はないと思わせます。石垣や虎口の見方は城の基本用語にまとめました。
二つの川を外堀にした城
城は本城と西の丸の二つの区画からなり、本城は本丸・二の丸・三の丸に分かれます。五ヶ瀬川と大瀬川という二本の川が城を挟み、天然の外堀になっていました。海にも近く、日向灘へ出る舟運と、豊後・肥後へ抜ける陸路の両方を押さえる位置です。九州平定のあと、秀吉がこの土地を押さえどころと見たことが分かります。九州平定の流れは四国平定・九州平定でまとめています。
築いた人は、十年で城を失った
高橋元種は秋月種実の子で、高橋家の養子に入った人です。秀吉の九州攻めでは早々に降り、日向延岡に五万三千石を得ました。城を築き、城下町を整えたのもこの人です。ところが慶長十八年(一六一三)、罪人をかくまったとして改易されます。自分が築いた町を見届ける時間は、十年ほどしかありませんでした。そのあとは有馬氏、三浦氏、牧野氏と替わり、内藤氏が幕末まで治めます。同じ日向の城では飫肥城や宮崎城が伊東氏と島津氏の争いの舞台でした。
現地はいま
城跡は城山公園として整備され、千人殺しの石垣と復元された北大手門を見られます。天守台跡には鐘つき堂があり、いまも一日に六回、町に時を知らせています。城山からは延岡の市街と二本の川の流れが見渡せます。
【延岡城・場所・アクセス】
〒882-0813 宮崎県延岡市東本小路
【延岡城地図】

