岐阜県恵那市に岩村城跡がある。日本100名城38番、そして日本三大山城のひとつ。
本丸の標高は約717メートル。全国の城のなかで、いちばん高いところにある城である。
ただ、この城が語るべきものは高さだけではない。八百年の歴史、女城主、そして幕末最高の思想家——ひとつの城跡に、これだけ詰まっている場所は珍しい。

山麓の藩主邸跡に復元された太鼓櫓。岩村町のシンボルである
八百年、源頼朝の重臣から始まった
太鼓櫓の脇に立つ案内板「太鼓櫓のいわれ」が、この城の来歴を簡潔にまとめている。

「太鼓櫓のいわれ」の説明板。岩村城八百年の歴史が一枚に凝縮されている
「岩村城」の歴史は八〇〇年前、源頼朝の重臣「加藤景廉」が、この地の地頭に任ぜられ築城してから、鎌倉・室町を経る約四〇〇年「戦国の世」まで美濃遠山氏の居城となっていた。
鎌倉時代の築城である。戦国の城として知られるが、始まりはそれよりはるか前だ。
そして美濃遠山氏が四百年にわたって居城とした。苗木城の遠山氏も、この一族である。
織田・武田・徳川の接点にあった
案内板は、戦国期の岩村城をこう表現する。
戦国時代には、天下を狙う織田・武田・徳川の接点に位置したこの城は、いやが上にも戦乱に巻込まれ、女城主の登場や森蘭丸の入城、美濃遠山氏本家の滅亡など悲しく華々しい時代を経て江戸の時代に至った。
「いやが上にも戦乱に巻込まれ」——この言い方が正確だと思う。
東美濃は、尾張の織田、甲斐の武田、三河の徳川がちょうどぶつかる場所にある。城主の意思とは無関係に、争いのほうから来てしまう位置だった。
そして案内板が挙げる三つの出来事——女城主の登場、森蘭丸の入城、遠山氏本家の滅亡。この三つが、岩村城の戦国を要約している。
森蘭丸は森長可の弟である。信長のそばで本能寺に死んだ、あの蘭丸が、この城の主だった時期がある。

太鼓櫓と表御門。藩主邸の入口を復元したもの

白壁の太鼓櫓。城下に時を知らせた建物である
城主が山を降りた日
案内板には、この城の性格が変わる瞬間も書かれている。
江戸の平和な時代になると、城主が城の山頂(本丸)に住む必要がなくなり、慶長六年(一六〇一年)城主「松平和泉守家乗」は、城の山麓に藩主邸を造営した。
標高717メートルの本丸に住む理由が、消えた。
戦がなくなれば、高さは不便でしかない。毎日あの山を上り下りする城主はいない。だから山麓に屋敷を建てて、そちらへ移った。
そして案内板はこう続ける。以後ここは政治の中心としての機能を果たす一方、「太鼓櫓」を設け城下に時を知らせ続けたものである。
「時」を知らせる為の「櫓」は、庶民と殿様との深い絆を象徴する建物である——と案内板は書く。高遠城にも太鼓櫓があり、そちらは昭和十八年まで時を告げ続けた。
藩主邸は、明治十四年に焼けた
その藩主邸の跡地に立つ案内板(恵那市教育委員会)が、また詳しい。

藩主邸跡の案内板(恵那市教育委員会)
岩村藩主邸(御殿)は江戸時代初期(一六一〇年頃)松平家乗によって創殿され、藩主は山頂の岩村城本丸から降りて入った。防衛防備に充分の注意をはらい門には番所を置いて出入りを監視し、屋敷内には地下室や地下道もあった。
地下室と地下道がある藩主邸。平和な時代の屋敷とはいえ、備えは残していた。
規模も書かれている。東西三十三間(約六十メートル)南北三十六間(約六十五・四メートル)という広大なもので、他に御内家、土蔵、番所など建物が二十三あった。
そして最期が、あっけない。
明治二年(一八六九年)版籍奉還により岩村県となり藩主が知事となると、ここを県庁とした。明治四年(一八七一年)廃藩置県により知事松平乗命は東京移住を命ぜられ藩主邸は空家となったが、明治十四年十月三十日夜、失火により全焼してしまった。
戦で焼けたのではない。空家になったあと、失火で焼けた。
八百年続いた城の中枢が、誰も住まなくなった十年後に、火の不始末で消えた。城の終わり方として、これほど静かなものもない。

藩主邸跡の石垣。建物は失われたが、石垣は残っている
幕末最高の思想家、佐藤一斎
そして、この城跡でいちばん意外なものが待っている。
藩主邸跡の一角に、佐藤一斎の坐像と顕彰碑が立っている。

佐藤一斎の坐像。山城の跡に、学者の像が座っている
佐藤一斎(さとう いっさい)は、岩村藩士の子である。のちに幕府の学問所・昌平黌の儒官となり、多くの門人を育てた。
顕彰碑の建立趣意に、こう刻まれている。

顕彰碑の建立趣意
幕末最高の思想家佐藤一斎は「志こそが人間のレベルを決める!」といい、志を養うべきことを説き、その思想を著書「言志四録」(言志録、言志後録、言志晩録、言志耋録)などに書き残しました。
そして隣に、その代表作が刻まれた碑がある。「三学戒」である。

三学戒の碑。「老いて学べば 則ち死して朽ちず」
壮にして学べば 則ち老いて衰えず
老いて学べば 則ち死して朽ちず
佐藤一斎「言志晩録」
若いうちに学べば、壮年になって成すことがある。壮年で学べば、老いても衰えない。そして老いてから学べば、死んでも朽ちない。
碑文はこの言葉を「言志晩録の一節で最も輝いている言葉です」と紹介し、全国各地300余名の賛同者の浄財によって平成八年に建てられたと記す。
山城の跡に、学問の碑が立っている。石垣を見に来て、この碑の前で足を止める人は多いと思う。

「美濃国 岩村城女太鼓」の看板。女城主の里としての岩村を象徴する
女城主の里
岩村町は、みずからを「女城主の里」と呼んでいる。
案内板にも「今岩村町が進めている『女城主の里事業』のモニュメントとして相応しい建物である」と、太鼓櫓の復元理由が書かれている。
戦国期、この城には女性が城主として立った時期があった。城下には「女城主」の名を冠した酒や太鼓があり、のぼりが並ぶ。
負けた側の記憶を、町の看板にしている。そういう土地である。
岩村城の現地写真


ここから上が、山城である — 登城口と城下町
ここまでは、すべて山麓の話である。
岩村城の本丸は、ここから山を登った先、標高717メートルの山頂にある。

「岩村城登城口」の碑。ここから本丸まで、山道が続く
藩主邸跡の奥に、大きな自然石に「岩村城登城口」と刻まれた碑が立っている。ここが、平地と山城の境目である。
江戸時代の藩主は、この境目より下で暮らしていた。戦国時代の城主は、この上にいた。同じ城跡のなかに、二つの時代が上下に分かれて残っている。岩村城の面白さは、この構造そのものにある。

岩村城跡の総合案内図。山麓の藩主邸跡と山頂の本丸の位置関係がわかる

石段と門。白壁の塀が長く続いている

白壁の塀と石垣。城と町の境目あたり

城下町のなかにある観光案内所

岩村城下町の案内図。町並みと城跡の位置関係がわかる
そしてもうひとつ、岩村がいいのは城と町がひと続きになっていることだ。
国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた町並みを歩き、そのまま藩主邸跡に入り、登城口から山に取り付く。城下町から本丸まで、歩いてつながっている。駅を降りて、そのまま八百年をさかのぼれる城跡は、そう多くない。
訪ねるときに
岩村城跡は山麓の藩主邸跡と、山頂の本丸に分かれている。
山麓だけなら平坦である。太鼓櫓、表御門、佐藤一斎の碑、歴史資料館がまとまっている。
本丸まで登るなら、覚悟がいる。登城口から本丸まで約800メートル、案内図の目安で20分。標高差があるので、実際にはもう少しかかると思ったほうがいい。
登った先に待っているのが六段壁である。石垣が六段に積み重なる、この城最大の見どころで、写真で見るより実物は圧倒的に大きい。
ほかに霧ヶ井、長局埋門、追手門・三重櫓跡など、案内図に十七の見どころが番号で示されている。
そして城下町も歩きたい。岩村の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
岩村城・場所・アクセス
〒509-7403 岐阜県恵那市岩村町
明知鉄道「岩村駅」から徒歩約20分(藩主邸跡まで)/中央自動車道「恵那IC」から車で約20分。
岩村歴史資料館の駐車場を利用できます。本丸直下まで車で上がれる林道もあります。
岩村城ゆかりの城
- 苗木城(岐阜県中津川市)… 同じ東美濃、遠山一族の城。巨岩の上に天守が建っていた
- 飯田城(長野県飯田市)… 街に飲み込まれて遺構が消えた城
- 高遠城(長野県伊那市)… 同じく太鼓櫓が残る城
- 新府城(山梨県韮崎市)… 武田勝頼が自ら焼いた城
- 兼山城(美濃金山城)(岐阜県可児市)… 森氏の居城。蘭丸も長可もここで育った
- 大島城(長野県松川町)… 武田信玄が築き、戦わずに開かれた伊那谷の城
- 馬籠宿(岐阜県中津川市)… 中山道の宿場町。木曽路が開いて武田は滅んだ
この城に入った森蘭丸の兄については、森長可とは:森蘭丸の兄「鬼武蔵」で詳しく書いています。
