長野県飯田市に飯田城跡がある。伊那谷の中心、天竜川と松川に挟まれた河岸段丘の上に築かれた城である。
ただし、訪ねる前に言っておきたいことがある。この城の遺構は、ほとんど残っていない。
現地の案内板(飯田市観光協会)が、そのことを正直に書いている。

飯田城本丸跡の案内板。長姫神社の境内に立つ
本丸跡は、いま神社になっている
案内板の書き出しはこうである。
「長姫神社、柳田館、日夏館の用地に当り、東西、南北共に百米土塀で囲まれて本丸御殿を中心として七棟の建家群で、四百余年に及んでいた。」
本丸は東西南北ともに百メートル。そこに七棟の建物が並んでいた。
いまその場所に建っているのが長姫神社(おさひめじんじゃ)である。城の中心が、そのまま神社の境内になっている。

長姫神社の拝殿。ここが飯田城の本丸だった
遺構は三つだけ、と案内板が書いている
そして案内板は、残っているものをはっきり数え上げている。
「遺構は柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積土塁跡、観耕亭の碑のみである。」
のみ、である。
空堀の跡、石積土塁の跡、そして碑がひとつ。四百年続いた城の、残ったものがこれだけだ。
天守も櫓も門も、堀の大半も消えている。城跡を訪ねて「何もない」と感じる人は多いと思う。実際、何も残っていないのだから、それは正しい感想である。
ただ、「なぜ残らなかったのか」を考えると、この城の性格が見えてくる。
市街地の真ん中にあった、という理由
飯田城が消えた理由は、単純である。そこが街の中心だったからだ。
山の上にある岩村城や、川に囲まれた新府城は、廃城のあと誰も使わなかったから遺構が残った。
だが飯田城は違う。段丘の上の一等地で、そのまま市街地になった。
神社が建ち、美術館が建ち、旅館が建ち、道路が通った。使い続けられた土地は、記憶を上書きされていく。
案内板にも、その痕跡が読み取れる。「三宜亭旅館の用地になっている東端には武具庫三棟と番所をもっていた」——武器庫の跡が、旅館になっている。
そして「桜丸(今の赤門一帯)が使われたと云う」「その昔山伏の修行所であった由縁で山伏丸と呼ばれる内郭があった」とも書かれている。曲輪の名前だけが、地名として残っている。
長姫城とも呼ばれた
案内板に、この城の別名の由来が書かれている。
「大杉が生い茂り陰気で建物が大きき過ぎ、城下町より離れ過ぎることで堀氏中期以後公行事以外は、桜丸(今の赤門一帯)が使われたと云う。長姫城とも呼ばれている。」
面白いのは「陰気で建物が大き過ぎ、城下町より離れ過ぎる」という部分である。
使いにくかった、と書いてある。だから城主は本丸をあまり使わず、桜丸のほうで日常の政務を執った。
城の案内板が「この本丸は不便だった」と正直に書いているのは、なかなか珍しい。
甲州征伐で、この城は戦わなかった
戦国期の飯田城に触れておきたい。
この城は武田氏の伊那支配の拠点だった。そして天正十年(1582)の織田信長による甲州征伐で、伊那谷の入口として最初に攻撃を受ける位置にあった。
高遠城の古戦場案内板に、このときの伊那谷の様子が記されている。
「伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。」
飯田城も、その「城を捨て逃亡」した城のひとつだった。
そして織田軍は伊那谷を無血で北上し、大島城も開城、高遠城だけが戦って全滅した。
飯田城が戦わなかったことは、臆病だったからではないと思う。すでに武田の統制が崩れていて、伊那の在地武将にとって「誰のために戦うのか」が消えていた。
甲州征伐のあと、飯田は毛利長秀(秀頼)に与えられる。武田の城は、そのまま織田方の城になった。
観耕亭の碑 — 城主が農民を眺めた場所
数少ない遺構のひとつ、観耕亭の碑(かんこうていのひ)の話をしたい。これがこの城で一番いい話だと思う。
飯田市教育委員会の案内板によれば、この碑は安政六年(1859)に建てられたもので、昭和四十三年に市の指定を受けている。
碑文の内容が、そのまま案内板に要約されている。
「飯田城主堀親義侯は、文武の業にはげみ、折を見ては城外に出て山水を賞することを楽としていた名君である。」
ここまでは、よくある殿様の話である。問題はこの次だ。
「しかし、外出すると働いている農民の邪魔になる。」
殿様が出かけると、農民が仕事にならない。行列を整え、道を空け、頭を下げなければならないからである。
それに気づいた城主は、どうしたか。
「そこで城中に小亭を作り、そこより城外の農民たちが農耕にいそしんでいるのを眺め楽しんだ。」
自分が出ていくのをやめて、城の中に見晴らし台を作った。
そして案内板は、碑文の結びを引く。「賢者の楽と言うべく、まさに仁政の基とすべきである。」

観耕亭碑の案内板。碑文の内容が詳しく説明されている
碑文を書いたのは昌平黌の教官・安積信(艮斎)、篆額は安藤正宜、書は高橋豊珪。案内板は「碑文の内容、筆跡ともにすばらしいものです」と結んでいる。
石垣も天守もないこの城跡で、いちばん残す価値があったのが、この碑だった。そう考えると、遺構が三つしかないことの意味も変わってくる。
飯田城の現地写真




飯田城の現地写真(続き)

長姫神社の境内。奥に見えるのが市街の建物で、城跡が街に飲み込まれていることがわかる
訪ねるときに
正直に書く。遺構を目当てに来ると、物足りない。
見るべきものは三つである。柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積土塁跡、そして観耕亭の碑。案内板が挙げているとおりだ。
ただこの城は「城跡めぐり」ではなく「街歩き」として訪ねるほうが合っている。本丸が神社になり、武具庫が旅館になり、曲輪の名が地名として残る——城が街に溶けていく過程が、そのまま見られる場所である。
伊那谷を北上するなら、大島城、高遠城とあわせて回ると、甲州征伐の道筋がそのままたどれる。
飯田城・場所・アクセス
〒395-0034 長野県飯田市追手町2丁目(長姫神社)
JR飯田線「飯田駅」から徒歩約15分/中央自動車道「飯田IC」から車で約10分。
市街地のため、周辺の有料駐車場を利用することになります。
飯田城ゆかりの城
- 高遠城(長野県伊那市)… 伊那谷でただひとつ戦った城。仁科盛信が全滅した
- 大島城(長野県松川町)… 武田逍遥軒信廉が戦わずに開城した城
- 新府城(山梨県韮崎市)… 勝頼が自ら焼いた武田の最後の本拠
- 岩村城(岐阜県恵那市)… 日本三大山城。使われなくなったから遺構が残った例
- 苗木城(岐阜県中津川市)… 巨岩の上に築かれた東美濃の城
- 馬籠宿(岐阜県中津川市)… 中山道の宿場町。木曽路が開いて武田は滅んだ
甲州征伐で武田がどう崩れたかは、高遠城と新府城の記事で詳しく書いています。
