- 『豊臣兄弟!』第43回で、秀長は大和郡山に諸大名を招き、自ら「兄は天下人の器ではない」と語って真意を探ります。史料にこうした動きは見当たりません
- 招かれたのは家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家。のちの五大老が全員そろう顔ぶれです
- 秀長が諸大名との取次役だったことは史実です。島津の降伏を受け、毛利と折衝し、家康の上洛では自邸に泊めています
- 天正16年に秀長が郡山で大名をもてなした記録は確認できませんが、この時期の秀長が病がちになっていたことは『多聞院日記』などから分かります
- この座にいた5人のうち、関ヶ原で最後まで豊臣方に残ったのは宇喜多秀家ひとりでした
『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」で、いちばん大きく史実から離れたのは、大和郡山城の接待の場面でしょう。秀長が家康ら諸大名を招き、「このところの兄は道を間違えている」「わたしが関白になってあとを継ぐ」と持ちかけ、家康に「罠であろう」と警戒される ── あの一幕です。結論からいうと、秀長がこうした相談を諸大名に持ちかけたという記録はありません。ただし、秀長が大名と兄のあいだに立つ役だったことは史実です。この記事では、記録に残る秀長の取次役としての仕事をたどり、ドラマの場面がどこから立ち上がっているのかを整理します。

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結論:秀長が兄の廃嫡を諸大名に諮った記録はない
先に結論を書きます。秀長が「兄は天下人の器ではない」と語り、自分が関白を継ぐと諸大名に持ちかけたという記録は見当たりません。秀吉のあとを継いで関白になったのは甥の秀次で、天正19年のことです。秀長はその年の正月に亡くなっていますから、後継者として名が挙がる場面すらありませんでした。
天正16年に秀長が郡山で家康らをもてなしたという記録も、いまのところ確認できません。むしろこの時期の秀長は、体を崩しはじめていました。『多聞院日記』には天正14年ごろから湯治をくりかえす姿が見え、天正17年には有馬で1か月を過ごしています。病の経過は豊臣秀長の死因は何だったのかにまとめました。
ただし「取次役」だったことは史実
では、あの場面はどこから立ち上がっているのか。秀長が諸大名と兄のあいだに立つ役だったことは、史料に残っています。
大友宗麟が上洛したとき、秀吉はこう言ったと『大友家文書録』に見えます。「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」。内々のことは利休に、公のことは秀長に ── 豊臣政権の窓口がこの2人だったという言葉です。
実際の仕事を並べると、こうなります。
- 長宗我部 天正13年、四国攻めの和議を秀吉が秀長に一任
- 毛利 同年、伊予国内の諸城を小早川隆景へ引き渡すよう指示
- 島津 天正15年、義久の降伏申し入れを秀長が受け、秀吉の朱印状11か条も秀長宛に届く
- 徳川 天正14年10月、上洛した家康が秀長の屋敷に泊まり、翌日に大坂城で臣従の礼をとる
つまり、第43回の座敷に集まった大名のほとんどと、秀長は実際に向き合ってきたわけです。家康を泊めた夜のことは家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか、秀長の仕事ぶり全体は豊臣秀長は実際に何をしていたのかで書いています。
集まった5人は、のちの五大老そのもの
ドラマが郡山に集めたのは、徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家の5人です。のちに五大老と呼ばれる顔ぶれと、ほぼ重なります。(五大老は家康・利家・輝元・秀家・上杉景勝で、隆景を数える時期もあります)
この5人がその後どうなったかを並べると、あの座敷の意味が変わって見えてきます。
| 大名 | 第43回での答え | 関ヶ原での立場 |
|---|---|---|
| 徳川家康 | 「刀狩りに従うつもりはない。できるわけがなかろう」 | 東軍の大将。戦後に天下を取る |
| 前田利家 | 反対。ただし秀長の芝居に協力していた | 関ヶ原の2年前に死去。前田家は東軍へ |
| 毛利輝元 | 反対。「大和でうまくいくのか見せてみろ」と怒る | 西軍の総大将に担がれながら動かず、戦後に大減封 |
| 小早川隆景 | 反対 | 関ヶ原の5年前に死去。養子の秀秋が西軍を裏切る |
| 宇喜多秀家 | ただひとり「従う」と答える | 最後まで西軍で戦い、八丈島へ流される |
こうして並べると、あの夜「従う」と答えた一人だけが、最後まで従ったことになります。秀家は秀吉の猶子で豪姫の夫、豊臣の身内として育った大名でした。その生涯は宇喜多秀家とは、毛利を支えた知将については小早川隆景とはで書いています。
秀家が秀次を嫌う理由も描かれた
第43回では、秀家が「従う。されどあやつ(秀次)の企てなら従いたくない」と言います。理由は、秀次が秀吉に「秀家には直家の裏切りの血が流れている、あまり信じてはならぬ」と告げたのを聞いたからでした。
宇喜多直家は、舅を討ち主家の浦上を乗っ取って備前を取った人物です。その評判が息子にもついて回ったという設定は、戦国の血筋の見られ方として自然でしょう。そして皮肉なことに、関ヶ原で裏切らなかったのは秀家のほうでした。
この反目は、のちの秀次事件で効いてきます。文禄4年に秀次が切腹し、妻子39人が三条河原で処刑されたとき、誰もかばいませんでした(秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか)。第39回で秀長が「秀次には殿下の器はない」と言った話はなぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのかにあります。
「刀狩に従わない」は史実としてどうだったのか
ドラマで大名たちが口をそろえた「従うつもりはない」は、史実の側から見るとどうでしょうか。
刀狩令は天正16年7月8日に全国へ出されましたが、執行は各大名に任されていました。どこまで徹底したかには差があり、家康が公然と拒んだという記録はありません。ただし、村から武器が消えたわけでもありません。江戸時代になっても村には鉄砲が残り、害獣を追う「猟師鉄砲」として幕府に公認されていきます。
つまり刀狩は、武器の全没収というより「百姓は武器を持つ身分ではない」という線引きの宣言でした。大名たちが「大名の力を弱らせることが目的だろう」と疑ったのも的外れではありません。村から武装した者がいなくなれば、大名は領内で兵を集めにくくなるからです。
そして3年後、天正19年に身分統制令が出て、侍・町人・百姓の行き来が禁じられます。疑いのとおりに第二歩が来たわけです。刀狩令の中身は刀狩令とは、その後の一揆については刀狩りはかえって一揆を招いたのか、身分の固定は身分統制令とはで書いています。

なぜ「大和でやってみせろ」が効くのか
毛利が秀長に突きつけた「大和でうまくいくのか否か見せてみろ」という一言は、よくできています。大和は、刀狩をやるのにいちばん難しい土地だからです。
興福寺をはじめ寺社の力が強く、衆徒と呼ばれる武装した僧までいました(衆徒とは何者か)。百姓から刀を取る以前に、僧から武器を取り上げる話になります。
その大和を、秀長は力ずくでは治めていません。五か条の掟を出し、指出検地をかけ、十津川では「水田が絶無の不毛地帯だから」と検地を免除し、「秀長の御墨付なき者の徴収に応じるな」と念を押しています。取り上げる前に、信用を積んでいた。だから第43回で、秀長は刀が集まった結果ではなく、守れなかったと頭を下げる場面を見せることになります。秀長の大和支配は豊臣秀長の家臣団とはと秀長は実際に何をしていたのかをどうぞ。
家康は「危うく乗せられるところであった。罠であろう」と警戒しますが、秀長が起請文を出して本音を促すと、家康は「刀狩りに従うつもりはない。できるわけがなかろう」と答え、前田も毛利も続きました。「逆に一揆になって、佐々のように切腹に」「大名の力を弱らせることが目的だろう」── 従うと答えたのは宇喜多秀家だけです。
やがて秀家が「刀狩は殿下と秀長の企てのはず、辻褄が合わぬ」と気づき、秀長は「すべては偽りじゃ! お許しあれ」「どうしても皆さまの真意を知りたかった」と明かします。起請文はただ絵が描いてあるだけの白紙で、言質を取るつもりはありませんでした。秀家と前田も芝居に協力していたことが分かります。
怒ったのは毛利でした。輝元と隆景は「大和でうまくいくのか否か見せてみろ」と突きつけます。秀長は家康と利家に大判を渡しました。ほんとうに測りたかったのは毛利だったと読める作りです。
よくある疑問
Q. 秀長が「兄は天下人の器ではない」と言ったのは史実ですか?
A. 記録にありません。ドラマの創作です。
Q. 秀長が関白になる話はあったのですか?
A. ありません。秀吉のあとを継いだのは甥の秀次で、天正19年です。秀長はその年の正月に亡くなっています。
Q. 郡山城に諸大名が集まった記録はありますか?
A. 天正16年のこの集まりは確認できません。ただし秀長が諸大名との取次役だったことは史実です。
Q. 起請文とは何ですか?
A. 神仏に誓う形で約束を交わす文書です。豊臣政権では、聚楽第行幸のときに大名たちが秀吉への忠誠を誓った例があります(聚楽第行幸とは)。
Q. この5人はその後どうなりましたか?
A. 関ヶ原で家康は東軍の大将、前田と小早川隆景はすでに世を去り、毛利は総大将に担がれながら動かず、宇喜多秀家だけが最後まで西軍で戦いました。
家康が刀狩令を受けとっていたのかどうかは家康は刀狩りに従わなかったのかで紹介しています。
まとめ
第43回の郡山城の場面は、史実には見当たらない創作です。秀長が兄を「天下人の器ではない」と評した記録も、関白を継ぐと持ちかけた記録もありません。
けれども、秀長が大名と兄のあいだに立つ人だったことは事実でした。島津の降伏を受け、毛利と折衝し、家康を自分の屋敷に泊めた人です。その秀長が、嘘までついて諸大名の真意を測ろうとする ── ドラマがあの場面で見せたのは、取次役という仕事の内側だったのでしょう。
そして測った結果は、誰も兄の法令に従う気がないというものでした。成政が死に際に言った「まだ戦は全国に終わっていない」が、郡山の座敷で裏づけられたことになります。その秀長が亡くなるのは、この2年後です。
参考:『多聞院日記』/『大友家文書録』/『家忠日記』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書


