- 慶長19年(1614)10月、徳川家との戦いを決めた豊臣家は、秀頼の名で豊臣家と縁の深い大名たちに味方を呼びかけました。けれども、大坂城に駆けつけた大名は一人もいませんでした
- 呼びかけを受けたのは、島津家久・福島正則・蜂須賀家政・浅野長晟・前田利常・伊達政宗など、秀吉に取り立てられたり縁を結んだりした大名たちでした。使者を捕らえて徳川家に差し出し、忠誠を示した大名もいたと伝わります
- 秀吉子飼いの福島正則でさえ、味方にはならず、大坂の蔵屋敷にあった福島家の米八万石を豊臣方が使うのを黙って見逃すのが精いっぱいでした。正則は戦のあいだ江戸に留め置かれています
- 大名が来なかったのは、関ヶ原から十四年がたち、徳川の天下が固まっていたからです。豊臣家が頼れたのは、領地を失った浪人たちだけでした
11月6日に放送されるドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第3話では、大坂城の淀殿(栗山千明さん)が味方となる武士を集めようとしますが、徳川家を敵に回そうとする者は少なく、思うように集まらない様子が描かれるようです。史実の大坂の陣でも、豊臣家の呼びかけに応じて大坂城に入った大名は、一人もいませんでした。この記事では、豊臣家がどの大名に味方を求め、大名たちがどう応えたのか、そしてなぜ誰も来なかったのかをたどります。
豊臣家は大名に味方を呼びかけた
慶長19年(1614)、方広寺の鐘銘をめぐって徳川家との仲がこじれ、交渉にあたった片桐且元が大坂城を去ると、豊臣家は戦の支度に入ります。10月2日、豊臣家は大坂にあった諸大名の蔵屋敷から米を集め、兵糧の買い入れや武器の調達、城の守りの修理を始めました。同時に、秀頼の名で各地の大名に使者を送り、味方になるよう呼びかけたのです(方広寺鐘銘事件とは)。
呼びかけを受けたのは、秀吉に取り立てられたり、豊臣家と縁を結んだりした大名たちでした。豊臣家は、関ヶ原の戦いのあとも秀吉の恩を忘れていない大名がいるはずだと考えていたのでしょう。
| 大名 | 豊臣家との縁と、そのときの立場 |
|---|---|
| 福島正則 | 秀吉の親類で、子飼いの武将の筆頭。安芸広島の大名。冬の陣・夏の陣とも江戸に留め置かれた |
| 島津家久 | 薩摩の大名。関ヶ原で西軍についたが、領地を守り抜いた。豊臣方の誘いには応じなかった |
| 蜂須賀家政 | 秀吉の古くからの家臣・蜂須賀小六の子。阿波の大名。子の至鎮は冬の陣で徳川方として戦った |
| 浅野長晟 | 父の長政は秀吉の正室ねねの縁戚で、五奉行の一人。紀伊の大名で、九度山の真田家を見張る立場でもあった |
| 前田利常 | 秀吉の盟友・前田利家の孫。加賀の大名で、徳川方として出陣した |
| 伊達政宗 | 奥州の大名。秀吉に臣従した。大坂の陣では徳川方として出陣した |
大名たちはどう応えたのか
結果は、豊臣家の期待を大きく裏切るものでした。呼びかけに応じて大坂城に入った大名は一人もおらず、なかには豊臣家の使者を捕らえたり斬ったりして、徳川家への忠誠を示した大名もいたと伝わります。島津家久は誘いを断り、紀伊の浅野長晟は、九度山を抜け出した信繁を通さないよう、領内の村々に見張りを命じる側に立ちました(九度山の真田父子は誰に見張られていたのか)。
なかでも豊臣家が頼りにしていたのが、秀吉の親類で子飼いの武将だった福島正則です。けれども正則も、秀頼の加勢の求めには応じませんでした。正則にできたのは、大坂の蔵屋敷にあった福島家の米八万石を、豊臣方が使うのを黙って見逃すことくらいでした。家康は正則や黒田長政、加藤嘉明といった、かつて豊臣家に仕えた大名たちを江戸に留め置き、大坂へ出陣させませんでした。豊臣家との戦になれば寝返るかもしれない、と警戒したのです。
なぜ大名は一人も来なかったのか
大名が来なかった理由は、ひとことでいえば、徳川の天下がすでに固まっていたからです。関ヶ原の戦いから十四年、家康は征夷大将軍となり、慶長10年(1605)には将軍職を秀忠に譲って、徳川家が代々天下を治めることをはっきり示していました。諸大名は徳川家のもとで領地を安堵され、江戸に屋敷を構え、妻子を江戸に置いていました。豊臣方につけば、領地も家族もすべてを失うおそれがあったのです。
家康は、豊臣家と縁の深い大名ほど、念入りに手を打っていました。西国の大名には秀忠への忠誠を誓う起請文を出させ、福島正則らは江戸に留め置きます。秀吉の恩を感じていた大名がいたとしても、家を守るためには、徳川方につくほかに道はありませんでした。一方、浪人たちには失うものがありませんでした。関ヶ原のあとに領地を失った元大名や武将たちにとって、大坂城は再び世に出る最後の機会だったのです(大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのか)。

大名のかわりに集まった浪人たち
大名が来ないなか、豊臣家が頼ったのは、秀吉が遺した莫大な金銀でした。豊臣家はその金銀で全国から浪人を雇い入れ、十万ともいわれる兵が大坂城に集まります。真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永、後藤基次、明石全登らは、のちに「大坂五人衆」と呼ばれるようになりました(大坂城の浪人はどう雇われたのか)。
けれども、寄せ集めの浪人たちは、もとの主家も考え方もばらばらで、豊臣家の家臣たちとの間でも意見が分かれました。城を出て戦うか、城に籠もるかという大事な決断でも、最後は籠城に決まります。大名が一人も来なかったことは、豊臣方が城に頼るしかない戦い方を選ぶことにもつながっていきました(大野治長はなぜ籠城を選んだのか)。
ドラマ『真田十勇士』第3話の大坂城
第3話の予告では、大坂城の淀殿が味方となる武士を集めようとしますが、徳川家を敵に回す者は少なく、思うように進まないようです。九度山を脱出した幸村(安藤政信さん)と十勇士は、まさにその大坂城をめざしています。大名が誰も来ないなかで、幸村たちの到着が豊臣家にとってどれほど大きな意味を持つのか、注目したいところです(海野六郎は実在したのか/『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。
よくある疑問
Q. 大坂の陣で豊臣方についた大名はいたのですか?
A. いませんでした。秀頼の名で豊臣家と縁の深い大名たちに味方を呼びかけましたが、大坂城に入った大名は一人もいませんでした。
Q. 福島正則は豊臣方を助けたのですか?
A. 加勢の求めには応じず、大坂の蔵屋敷にあった福島家の米八万石を豊臣方が使うのを黙認しただけでした。正則は冬の陣・夏の陣とも江戸に留め置かれました。
Q. なぜ大名たちは豊臣方につかなかったのですか?
A. 関ヶ原から十四年がたって徳川の天下が固まり、豊臣方につけば領地も江戸にいる家族も失うおそれがあったからです。家康も、豊臣家と縁の深い大名に忠誠を誓わせたり、江戸に留め置いたりして手を打っていました。
Q. 大名のかわりに誰が大坂城に集まったのですか?
A. 関ヶ原のあとに領地を失った浪人たちです。豊臣家は秀吉の遺した金銀で浪人を雇い、十万ともいわれる兵が集まりました。
まとめ
慶長19年(1614)、豊臣家は秀頼の名で、福島正則や島津家久、蜂須賀家政、前田利常ら、豊臣家と縁の深い大名に味方を呼びかけましたが、大坂城に駆けつけた大名は一人もいませんでした。秀吉子飼いの福島正則でさえ、蔵屋敷の米を黙って使わせるのが精いっぱいでした。関ヶ原から十四年、徳川の天下はすでに揺るがないものになっていたのです。大名のかわりに集まった浪人たちとともに、豊臣家は最後の戦いに臨むことになります。
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