- 梅北一揆は、文禄元年(1592)6月、朝鮮出兵に向かう途中の島津家の家臣・梅北国兼が、肥後の佐敷城を乗っ取った反乱です
- 佐敷は加藤清正の領地でしたが、清正は朝鮮に渡っていて留守でした。国兼はそのすきをついたのです
- 反乱はわずか3日ほどで、佐敷城の留守居たちに国兼が討たれて終わりました
- 秀吉は激怒し、島津家に責任を求めます。その結果、島津義久の弟・歳久が自害に追いこまれました
秀吉の朝鮮出兵が始まった文禄元年(1592)、九州の大名たちは次々と海を渡っていきました。その最中、肥後の南の小さな城で、思いがけない反乱が起きます。島津家の家臣が、加藤清正の留守を狙って城を乗っ取ったのです。梅北一揆。わずか3日で終わったこの反乱は、島津家に大きな傷を残しました。この記事では、肥後国人一揆とも天草国人一揆ともちがう、もうひとつの「肥後の一揆」をたどります(肥後国人一揆とは)。

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朝鮮出兵と島津家
天正15年(1587)、秀吉の九州攻めに敗れた島津家は、薩摩・大隅などを安堵されて豊臣の大名となりました。しかし家の中には、秀吉への不満がくすぶっていました。九州のほとんどを手中にしかけていたところを、力で押さえつけられたのですから無理もありません(九州攻めはどう終わったのか)。
文禄元年、秀吉は朝鮮出兵を始め、島津家にも大軍を出すよう命じます。遠い朝鮮での戦は、兵にとっても領民にとっても重い負担でした。島津家の軍勢は思うように集まらず、出陣も遅れていきます(朝鮮出兵をわかりやすく解説)。
佐敷城の乗っ取り
文禄元年6月、島津家の家臣・梅北国兼は、朝鮮へ渡るために肥前の名護屋へ向かう途中、肥後の佐敷に立ち寄りました。佐敷は加藤清正の領地で、城主の清正は朝鮮に渡って留守でした。
6月15日、国兼は手勢を率いて佐敷城を乗っ取ります。仲間たちは八代の城も狙ったといわれ、名護屋へ向かう途中の兵や周辺の人びとの中にも、これに加わる者が出ました。朝鮮出兵に対する不満が、一気に吹き出したのです。

3日で終わった反乱
ところが、反乱は長くは続きませんでした。佐敷城の留守を預かっていた加藤家の家臣たちは、国兼を油断させて討ち取ったと伝わります。6月17日のことでした。国兼が死ぬと、仲間たちもたちまち散り散りになり、反乱はわずか3日ほどで終わります。
| 日付(文禄元年) | できごと |
|---|---|
| 4月 | 朝鮮出兵が始まる。加藤清正は朝鮮へ渡る |
| 6月15日 | 梅北国兼が肥後の佐敷城を乗っ取る |
| 6月17日 | 佐敷城の留守居たちが国兼を討つ。反乱は終わる |
| 7月 | 秀吉の命で、島津歳久が自害に追いこまれる |
島津歳久の自害
名護屋城で知らせを聞いた秀吉は激怒しました。国兼は島津家の家臣です。秀吉は、島津家の中に反豊臣の動きがあると見て、その責任を求めます。
名指しされたのは、島津義久の弟・歳久でした。歳久は九州攻めのときから秀吉に強く反発し、従うことを最後まで渋っていた人物です。反乱に歳久の家臣が加わっていたこともあり、秀吉は歳久の首を差し出すよう命じました。7月、歳久は追手に囲まれて自害します(秀吉に処刑・切腹させられた人びと)。
梅北一揆が残したもの
梅北一揆は、それまでの国人一揆とは少し性格がちがいます。肥後国人一揆や天草国人一揆が「新しい領主に従うかどうか」をめぐる争いだったのに対し、梅北一揆は「朝鮮出兵という重い負担」への反発から起きました。天下統一のあと、秀吉が始めた海外への戦が、国内に新しい不満を生んでいたのです(天草国人一揆とは、国人一揆とは何か)。
そして、この反乱をきっかけに島津家は大きな代償を払いました。のちの関ヶ原の戦いで、島津家が独自の動きを見せる背景には、こうした豊臣政権との複雑な関係があったのかもしれません。
よくある質問
Q. 梅北一揆はいつ起きましたか?
A. 文禄元年(1592)6月15日に始まり、17日に終わりました。
Q. 梅北国兼とはだれですか?
A. 島津家の家臣で、朝鮮出兵に向かう途中で反乱を起こしました。
Q. どこで起きましたか?
A. 肥後の佐敷(いまの熊本県芦北町)で、加藤清正の佐敷城が乗っ取られました。
Q. 梅北一揆のあと島津家はどうなりましたか?
A. 秀吉に責任を求められ、島津義久の弟・歳久が自害に追いこまれました。
まとめ
梅北一揆は、朝鮮出兵のさなかの文禄元年、島津家の家臣・梅北国兼が加藤清正の佐敷城を乗っ取った反乱です。反乱は3日ほどで鎮まりましたが、秀吉の怒りは島津家に向かい、島津歳久が自害に追いこまれました。天下統一のあとの海外への戦が、国内に新しい火種を生んでいたことを物語るできごとです。
参考:『島津家文書』/北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館/芦北町「佐敷城跡」案内

