- 蒲生氏郷(がもう うじさと、1556〜1595)は、近江日野の名門・蒲生家に生まれ、少年のころ人質として信長のもとへ送られた武将です。その才を見込んだ信長は、娘の冬姫を氏郷に嫁がせました
- 秀吉の時代には伊勢松坂の城主となり、九州攻めでは岩石城の攻撃で先鋒を務め、城を1日で落としました
- 千利休の高弟「利休七哲」の一人で、キリシタン(洗礼名レオ)でもありました。武勇と教養をあわせ持つ大名として知られます
- 小田原攻めのあと会津に移され、のちに92万石の大大名として、伊達政宗ににらみをきかせる役を担いました
- しかし文禄4年(1595)、40歳の若さで病死します。「秀吉に恐れられた男」とも語られる人物です
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第42回前後は、九州攻め、北野大茶湯、利休と茶人たちが描かれる時期です。その三つすべてに顔を出すのが、蒲生氏郷です。岩石城を1日で落とした武将であり、利休の高弟であり、キリシタン大名でもありました。この記事では、氏郷がどんな人物だったのかを、その生涯とともに紹介します。
■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■
当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります
※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。
蒲生氏郷の生涯
| 年 | できごと |
|---|---|
| 弘治2年(1556) | 近江日野に生まれる。幼名は鶴千代 |
| 永禄11年(1568) | 13歳で人質として信長のもとへ送られる |
| 永禄12年(1569) | 伊勢大河内城の戦いで初陣を飾り、信長の娘・冬姫と結ばれる |
| 天正10年(1582) | 本能寺の変。父とともに、安土城にいた信長の妻子を日野城に迎えて守る |
| 天正12年(1584) | 伊勢松ヶ島12万石に移る。この年から「氏郷」と名のる |
| 天正13年(1585)ごろ | 高山右近のすすめで洗礼を受ける(洗礼名レオ) |
| 天正15年(1587) | 九州攻め。岩石城を前田利長とともに攻め、1日で落とす |
| 天正16年(1588) | 松坂城を完成させて移る |
| 天正18年(1590) | 小田原攻めのあと、会津42万石に移される |
| 天正19年(1591)以降 | 奥州の一揆を鎮め、加増を重ねて会津92万石となる |
| 文禄2年(1593) | 朝鮮出兵の拠点・肥前名護屋で病に倒れる |
| 文禄4年(1595)2月 | 伏見の屋敷で死去。40歳 |
信長に見込まれた少年
蒲生家は、近江日野(いまの滋賀県日野町)を本拠とした名門です。永禄11年(1568)、信長が近江に攻めこむと、父の賢秀は信長に従い、13歳の氏郷を人質として差し出しました。
岐阜城で暮らした氏郷は、信長に才を見込まれます。翌年、伊勢の大河内城の戦いで初陣を飾って手柄を立てると、信長は氏郷を人質から解き、娘の冬姫を嫁がせました。人質として来た少年が、主君の娘婿になったのです(日野城)。
天正10年(1582)の本能寺の変では、安土城の留守を守っていた父とともに、信長の妻子を日野城に迎えて守りました。この働きもあって、氏郷はその後、秀吉のもとで大名として取り立てられていきます。
九州攻め ─ 岩石城を1日で落とす
天正15年(1587)の九州攻めで、氏郷は秀吉の本隊に加わりました。九州に上陸した秀吉が最初に攻めたのが、秋月種実の支城・豊前の岩石城です。山の上の堅い城で、城兵は約3000。その攻撃の先鋒を、氏郷は前田利長とともに務めました。
激しい戦いの末、岩石城はわずか1日で落ちます。この勝利に震えあがった秋月種実は数日で降伏し、九州の国衆は次々に豊臣方に従いました。九州攻めの流れを決めた最初の一戦で、氏郷は大きな役割を果たしたのです(島津はなぜあっさり秀吉に敗れたのか)。
利休七哲 ─ 茶の湯の名人
氏郷は武勇だけの人ではありませんでした。千利休に茶の湯を学び、利休の弟子のなかでもとくにすぐれた「利休七哲」の一人に数えられます。七哲の顔ぶれは書物によって入れ替わりますが、氏郷の名はほとんどの書物に見え、筆頭に挙げられることもあります(利休七哲とは)。
天正19年に利休が秀吉の命で切腹すると、氏郷は利休の子・少庵を会津にかくまったと伝わります。のちに少庵は京都に戻り、千家の茶の湯を受け継ぎました。いまに続く千家の茶道が残ったのには、氏郷の力もあったのです(千利休の弟子たちはどうなったのか)。
キリシタン大名として
氏郷は、同じ利休の弟子で親しかった高山右近のすすめで洗礼を受け、「レオ」という洗礼名を持つキリシタンになりました。天正15年6月、九州攻めの直後に秀吉がバテレン追放令を出すと、右近は信仰を捨てずに領地を失います(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。氏郷は表立って信仰を示すことは控えたものの、その後も宣教師を家臣に迎えるなど、キリスト教とのつながりを持ち続けたといわれます。
会津92万石 ─ 伊達政宗へのおさえ
天正18年(1590)、小田原攻めのあと、秀吉は奥州の大名の領地を決め直しました(奥州仕置とは)。このとき氏郷は伊勢松坂から会津42万石に移されます。会津は、奥州の大名をにらむ要の地です。とくに、小田原に遅れて参陣し、会津を取り上げられた伊達政宗へのおさえが、氏郷の役目でした(伊達政宗はなぜ小田原に遅れたのか)。
まもなく奥州で一揆が起こると、氏郷は政宗とともにその鎮圧にあたりましたが、政宗が一揆をあおっているのではないかと疑い、秀吉に訴えています。その後の加増で会津は92万石となり、氏郷は徳川家康・毛利輝元に次ぐほどの大大名になりました。会津の黒川を「若松」と改め、城と城下町を整えたのも氏郷です。
40歳の死
文禄2年(1593)、朝鮮出兵のため肥前名護屋に在陣していた氏郷は病に倒れます。腹に水がたまり、顔や手足がむくむ重い病でした。治療のかいなく、文禄4年2月、伏見の屋敷で40歳で亡くなります(戦国武将の病気と死因)。
辞世の歌として「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風」が伝わります。風が吹かなくても花はいつか散るのに、なぜ春の山風はこうも気短に散らしてしまうのか。若くして世を去る無念がにじむ歌です。
氏郷の才を恐れた秀吉や石田三成が、毒を盛って氏郷を殺した。
毒殺の話は江戸時代の書物に見えますが、確かな証拠はありません。記録に残る症状からは、重い病による病死とみるのが自然です。それでも毒殺説が語られたのは、氏郷がそれほど秀吉から一目置かれた大名だったからでしょう。
よくある疑問
Q. 蒲生氏郷の読み方は?
A. 「がもう うじさと」と読みます。
Q. 蒲生氏郷の妻はだれですか?
A. 織田信長の娘・冬姫です。人質として信長のもとにいた氏郷は、初陣の手柄で冬姫を嫁がされました。
Q. 蒲生氏郷は九州攻めで何をしましたか?
A. 秀吉本隊の先鋒として、前田利長とともに豊前の岩石城を攻め、1日で落としました。
Q. 蒲生氏郷はキリシタンだったのですか?
A. はい。高山右近のすすめで洗礼を受け、洗礼名は「レオ」でした。
Q. 蒲生氏郷は何歳で亡くなりましたか?
A. 文禄4年(1595)2月、40歳で亡くなりました。
同じ天正15年、大坂では細川忠興の妻・玉がひそかに洗礼を受けていました。細川ガラシャはなぜバテレン追放令のあとに洗礼を受けたのかで紹介しています。
参考:日野町「蒲生氏郷」、『国史大辞典』「蒲生氏郷」ほか

