源平藤橘(げんぺいとうきつ)とは、源・平・藤原・橘の四つの氏(うじ)をまとめた呼び方です。どれも天皇から与えられた氏で、日本を代表する名門の氏とされてきました。藤原は飛鳥時代の中臣鎌足に、橘は奈良時代の県犬養三千代に、源と平は平安時代の天皇の皇子や孫に始まります。戦国の武将たちも、この四つのどれかを先祖の氏として名のりました。そして豊臣秀吉は、この四つに並ぶ五番目の氏「豊臣」を帝から与えられます。
- 源平藤橘は、源・平・藤原・橘の四つの氏の総称。四姓(しせい)とも呼ばれる
- 四つとも天皇から与えられた氏で、天皇家や朝廷の中枢と深く結びついていた
- 氏(うじ)は名字とは別のもの。朝廷の官位は氏にもとづいて与えられた
- 織田信長は平氏、徳川家康は源氏を名のった。秀吉は平氏から藤原氏を経て、新しい氏「豊臣」を立てた
- 『豊臣兄弟!』第38回は、秀吉が帝から新しい氏をもらうことになる回
源平藤橘とは:天皇から与えられた四つの氏

源平藤橘の四つの氏と、秀吉が加えた五番目の氏「豊臣」
昔の日本人には、名字とは別に「氏(うじ)」がありました。氏は一族の出自を示す名前で、朝廷から官位をもらうときには、この氏で呼ばれます。たとえば秀吉の正式な名のりは「豊臣朝臣秀吉」で、「羽柴」は名字です。氏と名字の違いは豊臣と羽柴はどう違うのかで詳しく紹介しています。
数ある氏のなかで、とくに有力で、多くの人が先祖の氏として名のったのが源・平・藤原・橘の四つです。この四つはどれも、天皇が功績のあった者や皇族に与えた氏でした。四つの頭文字をとって「源平藤橘」、あるいは「四姓」と呼ばれます。
藤原氏 ── 中臣鎌足に始まる、摂関家の氏
四つのなかで最も古いのが藤原氏です。天智天皇八年(669)、大化の改新を進めた中臣鎌足が、亡くなる直前に天智天皇から「藤原」の氏を与えられたのが始まりとされます。のちに藤原の氏は、鎌足の子・不比等の子孫だけが名のるものとされました。
藤原氏は平安時代に摂政・関白の地位を独占し、やがて近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家に分かれます。関白になれるのはこの五摂家の者だけ、というしきたりが、戦国時代の秀吉の前に立ちはだかることになります。関白という地位については関白とは何かで、鎌足をまつる大和の談山神社は談山神社(多武峰)で紹介しています。
橘氏 ── 女官の功績から始まった氏
橘氏の始まりは、女性です。和銅元年(708)、元明天皇の即位の儀式の折に、長く宮中に仕えてきた女官の県犬養三千代が、その功績をたたえられて「橘」の氏を与えられました。のちに三千代の子の葛城王がこの氏を受け継いで橘諸兄となり、奈良時代に左大臣にまで上ります。
しかし藤原氏の勢いに押され、橘氏から公卿が出たのは平安時代の半ばまででした。中世になると、楠木正成が橘氏を名のったことで知られます。四姓のなかでは最も早く表舞台から退いた氏です。朝廷の官職の並びは関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列で整理しています。
源氏 ── 嵯峨天皇の子どもたちから
源氏は、天皇の子や孫が皇族を離れて臣下になるときに与えられた氏です。弘仁五年(814)、嵯峨天皇が自分の皇子・皇女に「源」の氏を与えたのが始まりとされます。皇族のままでは朝廷の財政の負担が重くなるため、臣下に下して役人として働かせる、という意味もありました。
その後も多くの天皇の子孫が源氏となり、どの天皇から出たかによって嵯峨源氏・清和源氏などと呼び分けられます。武家として大きく栄えたのが清和源氏で、ここから源頼朝が出て鎌倉幕府を開きました。そのため「源氏でなければ征夷大将軍になれない」という見方が、のちの時代に広く語られるようになります。秀吉がこの通説とどう向き合ったのかは秀吉はなぜ関白になったのかで扱っています。
平氏 ── 桓武天皇の孫から
平氏も、源氏と同じく皇族が臣下になるときに与えられた氏です。天長二年(825)、桓武天皇の孫にあたる高棟王に「平」の氏が与えられたのが始まりとされます。桓武天皇の子孫の平氏は桓武平氏と呼ばれ、そのなかから東国に根づいた武家の一族が育ちました。
武家の平氏から出た平清盛は、武士として初めて太政大臣にまで上ります。源氏と平氏が争った源平合戦を経て、「源平」の二つの氏は武家の代名詞のようになっていきました。清盛が上った太政大臣の位置づけは関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列で紹介しています。
| 氏 | 始まり | 与えられた人 | 代表的な人物 |
|---|---|---|---|
| 藤原 | 天智天皇八年(669) | 中臣鎌足 | 藤原道長、五摂家 |
| 橘 | 和銅元年(708) | 県犬養三千代 | 橘諸兄、楠木正成(称した) |
| 源 | 弘仁五年(814) | 嵯峨天皇の皇子・皇女 | 源頼朝 |
| 平 | 天長二年(825) | 桓武天皇の孫・高棟王 | 平清盛 |
なぜこの四つが「代表」なのか
源平藤橘に共通するのは、天皇から与えられた氏であり、天皇家や朝廷の中枢と深く結びついていたことです。藤原は摂関家として朝廷の頂点に立ち、源と平は天皇の血を引く氏として武家の棟梁を生み、橘も一時は左大臣を出しました。由緒と権威の両方を備えた氏だったからこそ、のちの時代の人びとは、自分の家の先祖をこの四つのどれかに結びつけようとしたのです。
戦国武将はどの氏を名のったのか
戦国時代の武将たちも、官位をもらう場面では源平藤橘のどれかを名のりました。織田信長は平氏を称し、徳川家康は「徳川」に名字を改めたときには藤原氏として官位を受け、のちに源氏を名のっています。どの氏を名のるかは、先祖の由緒であると同時に、その家がどんな地位をめざすかを示すものでもありました。
秀吉は、はじめ主君の信長にならって平氏を称していたといいます。しかし関白をめざしたとき、平氏のままでは届かない壁にぶつかりました。征夷大将軍ではなく関白を選んだ理由は秀吉はなぜ関白になったのかで詳しく紹介しています。
秀吉が加えた五番目の氏「豊臣」
関白になれるのは藤原氏の五摂家の者だけでした。天正十三年(1585)、五摂家のあいだで関白の座をめぐる争いが起きたすきに、秀吉は前の関白・近衛前久の猶子となって藤原氏の一員になり、七月に関白に就きます。この経緯は近衛前久とは何者かで扱っています。
しかし、借りものの藤原氏のままでは、自分の子孫に関白の地位を受け継がせることはできません。そこで秀吉は、源平藤橘のどれでもない、まったく新しい氏を立てることを朝廷に認めさせました。それが「豊臣」です。秀吉の側近・大村由己が書いた『任官之事』には、古い氏を継ぐのではなく新しい氏を立てるという秀吉の考えが記されています。
豊臣の氏を与えられた時期は、天正十三年九月とする説と、秀吉が太政大臣になった天正十四年(1586)十二月とする説があり、はっきりしていません。秀吉はその後、家臣だけでなく多くの大名にも豊臣の氏を与え、「豊臣朝臣」を名のらせました。四つの古い氏に並ぶ五番目の氏は、秀吉の天下とともに一気に広がったのです。
ドラマではこう描かれています
まとめ
源平藤橘は、天皇から与えられた源・平・藤原・橘の四つの氏で、日本の名門の氏の代表とされてきました。藤原は摂関家の氏として朝廷の頂点に立ち、源と平は武家の棟梁を生み、橘は早くに表舞台から退きました。戦国の武将たちもこの四つを名のり、秀吉は平から藤原を経て、ついに五番目の氏「豊臣」を立てます。秀長の生涯は豊臣秀長とはからどうぞ。
参考文献
- 『日本書紀』『続日本紀』
- 大村由己『任官之事』
- 『押小路家文書』

