【丸山城址とは】
丸山城址は、神奈川県伊勢原市の下糟屋地区、台地の上に築かれた中世の城郭跡である。現在は丸山城址公園として整備されている。
この城跡が興味深いのは、「いつ、誰が築いたのか」がまだ決着していない点にある。しかも現地の案内板が、そのことを隠さずに書いている。

「丸山城址とその周辺」の案内板(平成二十七年三月・伊勢原市教育委員会)。昭和三十六年と平成四年の地形図が並ぶ
【伝承と発掘が食い違う城】
案内板によれば、江戸時代末の地誌には、平安時代末から鎌倉時代初期にこの地を支配した糟屋氏の居跡だという伝承が記されている。地名の「下糟屋」もこの一族に由来する。
ところが昭和六十年度の発掘調査で大規模な堀と土塁が確認され、以後、土地区画整理事業などに伴って複数回の調査が積み重ねられた結果、この城郭は十五世紀から十六世紀頃のものと考えられるようになってきた。伝承より三百年ほど新しい。
そして案内板は、こう結んでいる。「結論は今後の研究を待つのみですが」。
行政が設置する案内板が、確定していないことを確定していないまま書くのは、実は珍しい。分からないことを分からないと示したうえで、現時点で言えることだけを並べる。城跡を訪ねる者にとって、これは誠実で、しかも面白い。
【糟屋氏という一族】
伝承が名を挙げる糟屋氏についても触れておきたい。相模国糟屋荘を本拠とした武士団で、源頼朝の挙兵に従った鎌倉御家人である。糟屋有季は一ノ谷の戦いで平重衡を捕らえたと伝えられ、幕府草創期の記録にたびたび姿を見せる。
だがその糟屋氏も、建仁三年(1203)の比企能員の変で比企方に付き、討たれて没落した。鎌倉幕府の内部抗争は、こうして相模の在地武士を次々に呑み込んでいった。
江戸時代末の地誌が丸山城址を糟屋氏の居跡と伝えたのは、この一族の記憶が地名とともに残り続けたからだろう。発掘の年代が合わないからといって、伝承が無意味になるわけではない。誰がこの土地を記憶していたか、という別の情報がそこにはある。
【太田道真・道灌の時代】
発掘が示す十五世紀から十六世紀とは、関東にとってどういう時代だったか。案内板はここも具体的に書いている。
ちょうど太田道真・道灌父子とその主家である扇谷上杉氏が活躍した頃から、上杉氏らの勢力を追い払って伊豆から相模へ侵攻した小田原北条氏の時代にあたる、と。
太田道灌は江戸城を築き、岩槻城を築いたとされ、石神井城の豊島氏を滅ぼした、関東屈指の戦上手である。その父・道真とともに扇谷上杉家を支え、相模と武蔵に勢力を張った。
丸山城が誰の城だったにせよ、この一帯が上杉から北条へ入れ替わっていく最前線だったことは間違いない。
【近くで殺された道灌】
もう一つ、この案内板の地形図には見逃せない書き込みがある。城址の東側に「太田道灌の墓」と記されているのだ。
文明十八年(1486)七月二十六日、太田道灌は主君・扇谷上杉定正に招かれ、糟屋の館で謀殺された。享年五十五。あまりに有能な家臣を主君が恐れた結果とされ、「当方滅亡」——自分を殺せば扇谷上杉家も滅ぶ——という言葉を残したと伝わる。
その糟屋館がどこにあったのか、正確な位置は分かっていない。丸山城址はその有力な候補地の一つである。つまりこの台地は、関東最強の武将が味方の手で殺された場所かもしれない。
道灌にはもう一つ、城にまつわる死がある。文明十一年(1479)、下総の臼井城を攻めた際に、弟の太田図書助資忠が討ち死にしているのだ。弟は敵の城で死に、兄は味方の館で死んだ。七年の間に、太田家は二つの城で二人を失ったことになる。

「丸山城址公園」の石。住宅地の一角に、静かに城跡の名が残る
【城はどこまで広がっていたか】
案内板は城域の推定も示している。西は東海大学医学部附属病院のあたりから東へ延び、上杉氏と関係の深い臨済宗の寺・普済寺のあたりまで。その範囲から城郭遺構が発見されている。
現在この一帯は住宅地と病院と道路である。遺構は市街地の下に眠っており、区画整理や工事のたびに少しずつ姿を見せてきた。公園として見える部分は、城のごく一部にすぎない。
関東の土の城は、臼井城のように台地の縁が残れば遺構が見える。だが平地に広がった城が市街化すると、丸山城のように地下だけの存在になる。それでも掘れば出てくるという事実が、この城の現在地である。
【丸山城址・場所・アクセス】
〒259-1143 神奈川県伊勢原市下糟屋
小田急小田原線「伊勢原駅」から徒歩約20分、またはバス。東名高速 厚木インターから車で約15分。丸山城址公園として開放されている。
公園部分は広くないが、案内板の地形図で城域の推定範囲を確認してから周囲を歩くと、台地の縁の起伏が読み取れる。東へ足を延ばせば太田道灌の墓と伝わる場所がある。
【丸山城址ゆかりの城】
