平戸城:松浦鎮信が自ら焼いた城と、九十年後に山鹿素行の縄張で建て直された海の城

平戸城:山鹿素行の助言を得て築城 松浦水軍松浦鎮信の海城 平戸城

平戸城は、松浦(まつら)氏が平戸瀬戸を見下ろす岬に築いた城です。ただしこの城には、ほかにあまり例のない空白があります。最初に築かれた城は完成を目前にして、藩主自身の手で焼き払われてしまった。理由は徳川家への疑いを避けるためだったと伝えられます。それから九十年ほど、平戸は城を持たない藩でした。いま建つ城は元禄期に改めて築かれたもので、縄張には軍学者の山鹿素行が関わっています。海に突き出した立地、焼かれた城、九十年の空白、そして軍学者の設計。平戸城はそのどれもが、ほかの城とは違う事情を抱えています。

この記事のポイント
  • 最初の城は完成間際に松浦鎮信が自ら焼いたと伝わる
  • そのあと九十年ほど、平戸藩は城を持たなかった
  • 元禄期の再築には軍学者・山鹿素行の縄張が用いられた
  • 幕府への遠慮から天守は建てず、三重の乾櫓を天守の代わりとした
  • 狸櫓と北虎口門は当時の建物がそのまま残っている
目次

松浦氏と、海から見た平戸

平戸城の櫓と、その向こうに広がる平戸瀬戸

高いところから見下ろした櫓。屋根の向こうは平戸瀬戸で、対岸の町並みまで見わたせる。

松浦氏は、中世に玄界灘一帯で活動した松浦党の流れをくむ一族です。海に生きる武士たちで、船を操ることが力の源でした。平戸という土地は、朝鮮半島や中国大陸へ向かう航路の入口にあたり、日本のどの港よりも早く外国船が着く場所でもあります。松浦氏は秀吉の九州平定に従って所領を安堵され、朝鮮への出兵にも水軍として加わりました。写真のとおり、城からは平戸瀬戸と対岸が一望できます。海峡を通る船をすべて見ることができ、その気になれば止めることもできる。城がここに置かれた理由は、この眺めがすべてを説明しています。秀吉が海を渡ろうとした事情については朝鮮出兵の記事で扱っていますが、松浦氏のような海の武士にとって、あの戦は自分たちの得意分野が国家の事業に組みこまれた出来事でもありました。

自分で焼いた城 ― 日之嶽城

平戸城の土塀越しに見える平戸瀬戸と対岸

城内の土塀越しに海が見える。手前には自然石の碑が立ち、その向こうを船が通っていく。

▽ よく語られる話

平戸城は松浦水軍の本拠として、戦国の昔からこの岬に建ち続けてきた海の城である。

▼ 史実ではこうです

松浦鎮信が関ヶ原の前後にこの岬へ築いた城は日之嶽城(ひのたけじょう)と呼ばれ、十数年をかけて工事が進みました。ところが完成が近づいたころ、鎮信は自ら火を放ってこれを焼いてしまいます。理由として伝えられるのは、徳川家からの疑いを避けるためというもの。松浦氏は関ヶ原で旗色をはっきりさせられなかった家であり、そこへ立派な城を構えれば謀反の意思を疑われかねない。城を焼くことで恭順の意思を示した、という筋書きです。ほかに失火説もあり、断定はできません。確かなのは、このあと平戸藩が九十年ほど城を持たない藩として過ごしたという事実のほうです。

城を焼いてからの平戸藩は、御館(おたち)と呼ばれる屋敷で政務をとりました。ちょうどそのころの平戸は、オランダとイギリスが商館を置き、外国の船が出入りする国際的な港でもあります。大名の城がないまま、町だけが世界とつながっていた。そういう時期が数十年続いたわけです。やがて幕府が貿易の窓口を長崎へ一本化すると、平戸から商館は去り、町は静かになっていきました。対馬で宗氏がおさめた金石城も、朝鮮との交易を家の基盤にしながら、幕府の枠組みのなかでその役割を定められていった城です。海に開いた土地ほど、中央の方針ひとつで立場が変わってしまう。

山鹿素行の縄張で建て直された城

平戸城の石垣と土塀、その上に建つ櫓

切りそろえた石を積んだ石垣の上に白い土塀が続き、その先に櫓が建っている。坂の下から見上げた眺め。

元禄十六年、五代の松浦棟(たかし)が幕府の許しを得て、焼けたままだった岬に城を築き直します。このとき参考にされたのが、軍学者・山鹿素行の説でした。素行は江戸前期を代表する学者で、松浦家とは縁が深く、藩に招かれて兵学を講じています。赤穂の大石内蔵助が学んだのも素行の流れで、そのつながりは赤穂浪士ゆかりの笠間城の話にもつながります。素行の軍学は、地形を読んで曲輪と虎口を配し、寄せ手の動きを計算して縄張を決めるというもの。平戸城では、三方を海に囲まれた岬の地形をそのまま使い、狭い陸続きの部分に門と櫓を重ねて置きました。海城でありながら、守りの理屈は山城のそれに近い。そしてもう一つ、この城には天守がありません。幕府への遠慮から天守を建てず、二の丸に建てた三重三階の乾櫓を天守の代わりとしました。城を焼いた家が、九十年後にようやく城を持てたとき、それでも天守だけは遠慮した。この城の歴史がそのまま形に出ています。

いま建つ天守と、本物が残っている場所

平戸城の模擬天守を真下から見上げる

真下から見上げた天守。下層は黒い板張り、上は白い壁で、最上階には高欄がめぐらされている。

写真の天守は、昭和になって建てられた模擬天守です。もともとここに天守はなかったので、復元ではなく新しくつくられた建物ということになります。海から見上げたときの姿は絵になりますし、中は資料館として使われていますが、史跡として見るならもっと大事なものが別にあります。狸櫓(たぬきやぐら)と北虎口門(きたこぐちもん)です。この二つは元禄の再築のときの建物がそのまま残っていて、焼けも建て替えもされずに三百年を越えました。狸櫓という名は、床下に棲みついた狸を追い出そうとしたところ「床板を外さないでほしい」と頼まれたという言い伝えから来ています。門と櫓が並ぶ一角は、観光客の多くが天守へ直行してしまうため、かえって静かです。福山城でも、いちばん価値があるのは再建天守ではなく現存する伏見櫓と筋鉄御門でした。天守だけを見て帰ると、城のいちばん古い部分を見逃します。

松浦家のその後 ― 『甲子夜話』の藩主

平戸藩は六万三千石ほどの小さな藩でしたが、藩主の家からは変わった人物が出ています。九代の松浦清、隠居してからの号を静山(せいざん)という人です。静山は藩主を退いたあと江戸で膨大な随筆を書き残しました。それが『甲子夜話(かっしやわ)』で、大名や旗本の噂話から市井の風俗、剣術や兵学の話まで、二十年以上にわたって書き継がれた大部の記録です。当時の武家社会を知るうえで一級の史料とされています。よく引かれる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉も、この静山のものとして広まりました。もう一つ触れておくと、静山の娘は公家の中山家に嫁ぎ、その子が明治天皇の生母となります。つまり静山は明治天皇の外曾祖父にあたる。九州の西の端にある小さな藩の当主が、そういう形で近代の日本とつながっていたわけです。同じ肥前・肥後の海沿いには島原城のように、まったく別の形で時代の大波をかぶった城もありました。

訪ね方と見どころ

所在地は長崎県平戸市岩の上町。日本100名城の九十番です。平戸大橋を渡って市街へ入り、亀岡神社のある丘がそのまま城跡になっています。順路としては、まず北虎口門から入って狸櫓を見る。ここが現存の建物です。それから本丸へ上がって天守に登り、平戸瀬戸を見下ろす。晴れた日は対岸まではっきり見えて、なぜここに城を置いたかが一目でわかります。城を下りたら、港のほうへ歩いてオランダ商館の跡や石造りの橋を見てまわると、この町が城下町であると同時に貿易港だったことが実感できます。平戸は九州・沖縄のお城と城跡のなかでも、海との関わりがとりわけ濃い城です。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

▶ 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む

平戸藩/松浦家6万1700石:松浦詮 鳥羽・伏見の戦い直後に新政府軍に加わった平戸藩

平戸城の地を治めた平戸藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。

平戸城・場所とアクセス

〒859-5121 長崎県平戸市岩の上町1473

  • URLをコピーしました!
目次