笠間城とは
笠間城は、常陸国笠間の佐白山(標高約205メートル)に築かれた山城である。承久元年(1219)に笠間時朝が築いたと伝えられ、以後およそ三百七十年にわたって笠間氏の本拠となった。
戦国末に笠間氏が滅びたあと、蒲生郷成の手で近世城郭に改められ、茨城県では唯一、本格的な石垣を備えた城となる。江戸期には城主がめまぐるしく交代したが、そのうちの一家が赤穂へ移った浅野家であった。笠間市指定史跡、続日本100名城第112番。

佐白山の登城口に立つ笠間城跡の案内板と縄張図(茨城県笠間市笠間)
笠間氏十八代、三百七十年
笠間氏の祖・笠間時朝は、下野の名門宇都宮氏の一族である。佐白山の僧兵と徳蔵寺の争いを鎮めた功でこの地を得たと伝えられ、承久元年に築城したとされる。以後、笠間氏は宇都宮氏の一門として常陸西部に根を張った。
終わりは天正十八年(1590)に来る。豊臣秀吉の小田原征伐に際し、笠間綱家は宗家である宇都宮氏の召集に応じなかった。背いたとみなされた笠間氏は宇都宮勢に攻められ、十八代で滅亡する。三百七十年続いた家が、天下統一の号令ひとつで消えたことになる。

「史蹟 笠間城大手門跡」の石柱。杉木立の中に城道が残る
蒲生郷成が持ち込んだ石垣
笠間氏の滅亡後、城は宇都宮氏家臣の玉生氏が預かり、慶長三年(1598)に蒲生郷成が城主となった。この郷成が笠間城を近世城郭へと造り替えたと考えられている。

佐白山に残る石垣。関東の山城では珍しい本格的な石積みが見られる
ここが笠間城の面白いところである。蒲生郷成は蒲生氏郷の重臣で、氏郷は近江日野の出。石を積む技術は近江の穴太衆の流れを汲む。安土城で花開き、のちに彦根城へと受け継がれた近江の石積みが、この時期に常陸の山まで届いていたことになる。
関東の中世城郭は土塁と空堀で造るのが普通で、石垣を大規模に用いた例はほとんどない。笠間城が県内唯一と言われるのは、城主が近江から来た人物だったからである。城の姿は、そこを治めた人がどこから来たかを映す。

曲輪の縁を固める石垣。東日本大震災で損傷し、調査と修復が進められている
浅野家二十三年 ─ 赤穂へ移る前の笠間
江戸期の笠間は城主の交代が激しい。松平、小笠原、戸田、永井と続いたのち、元和八年(1622)十二月、真壁藩主だった浅野長重が同じ五万三千石で笠間に入封した。長重は浅野長政の三男である。
長重、そして跡を継いだ長直の時代に、笠間の城下町が整えられた。このとき作られた区割りと道路は江戸時代を通じて大きく変わらず、現在の笠間稲荷神社周辺の市街地の基になっている。町人町の「五か町」が完成し、武家町も新設された。その姿は「常陸国笠間之城絵図」(正保城絵図・国立公文書館蔵)に見ることができる。
ただし山城である笠間城は政務には不便だった。そのため現在の佐白山ろく公園にあたる場所に下屋敷が建てられ、以後の政務はそこで行われる。幕府の許可なく下屋敷を建てたことが、のちの転封の一因になったとも言われる。正保二年(1645)、浅野家は赤穂へ移った。笠間在任は約二十三年である。

「浅野家・大石家と笠間市」の案内板。浅野家と大石家の系図が並ぶ
忠臣蔵の前史は笠間にある
浅野家が赤穂へ移って五十七年後、元禄十四年(1701)に浅野内匠頭長矩の刃傷事件が起き、翌年十二月十四日に赤穂浪士の討ち入りが行われる。忠臣蔵として知られる一連の出来事である。
ここで見落とされがちなのが、義士たちの出身である。赤穂浪士の中核を占めた家の多くは、赤穂へ行く前は笠間の藩士だった。

「赤穂四十七士の笠間(藩)生まれの義士たち」。五人の義士が紹介されている
堀部弥兵衛金丸は寛永四年(1627)に笠間藩士の子として生まれ、十九歳のときに赤穂へ移った。義士のうち唯一、笠間藩士そのものだった人物である。赤穂では三百石の足軽大将、江戸留守居役を務め、中山安兵衛を養子に迎えた。これが堀部安兵衛武庸である。討ち入りでは七十七歳で表門を守った。
吉田忠左衛門兼亮は寛永十七年(1640)に笠間藩士・吉田助兵衛の嫡子として生まれ、赤穂移転のとき六歳。二百石の足軽頭兼郡奉行で、大石内蔵助の参謀役を務め、討ち入りでは裏門隊を采配した。
間喜兵衛光延は寛永十二年(1635)生まれ、移転時十一歳。討ち入り時は六十八歳で、長男の十次郎、次男の新六とともに親子三人で参加している。間瀬久太夫正明は寛永十八年(1641)生まれで移転時五歳、嫡子の孫九郎と父子で加わった。小野寺十内秀和は寛永二十年(1643)生まれ、三歳で赤穂へ移り、京都留守居役として伊藤仁斎に経学を学び、和歌をよくした。
並べてみると、彼らはいずれも笠間で生まれ、幼くして赤穂へ渡っている。「赤穂浪士」は、赤穂の人である前に笠間の人だった。
大石家が形を成した場所
筆頭家老の大石家も同じである。大石家はもともと近江国栗太郡大石庄、現在の大津市の出身で、下野小山氏の一族とも言われる。大石良信は豊臣秀次に仕えた。
その次男・良勝は仏門に入れられていたが、十四歳で寺を抜けて浪人となり、真岡藩主だった浅野長重に仕える。大坂の陣で首級二つを挙げ、長重の笠間移封にも従って千五百石を得て家老となった。大石家が「内蔵助」を名乗りはじめるのは、この笠間時代である。

笠間に立つ大石内蔵助良雄の像。大石家は笠間藩時代に浅野家の筆頭家老となった
良勝の子・良欽も笠間藩時代に出仕し、赤穂移封後に家老となる。良欽の子で良雄の父にあたる良昭は、寛永十七年(1640)の生まれ、つまり笠間で生まれている。三十二歳の若さで没したため家老職には就かなかった。

「史蹟 大石邸址」の石柱。討ち入りを率いた家の屋敷は、ここにあった
大石内蔵助良雄その人は赤穂の生まれだが、彼を家老の家に生んだ土台は、曽祖父から祖父にかけての笠間時代に築かれている。昭和五十五年(1980)十一月七日、笠間市と赤穂市は姉妹都市提携を結んだ。
笠間城の現地写真



笠間城・場所・アクセス
〒309-1611 茨城県笠間市笠間3616
JR水戸線「笠間駅」から徒歩約30分、または笠間稲荷神社方面から佐白山へ。北関東自動車道 友部インターから車で約20分。続日本100名城 第112番。
八幡台櫓は市内の真浄寺に移築されて現存する。東日本大震災で石垣が損傷したため、天守曲輪周辺は立入が制限される時期がある。訪問前に笠間市の案内を確認したい。麓の佐白山ろく公園は浅野家が下屋敷を構えた場所である。
