
泉岳寺の大石内蔵助銅像。手にしているのは連判状である。
- 大石内蔵助良雄は赤穂藩の筆頭家老。石高は千五百石
- 浅野家が断絶したあと、彼が最初に目指したのは討ち入りではなく御家再興だった
- 元禄十五年七月十八日、幕府が浅野長広の広島藩お預かりを決定。再興の望みが絶たれる
- その十日後の七月二十八日、円山会議で吉良討ちが決まった
- 遊蕩は敵を欺く芝居だったとされるが、もともと遊び好きだったという見方もある
泉岳寺の門をくぐると、右手に大石内蔵助の銅像が立っている。
連判状を手に、遠くを見ている姿である。忠義の人、耐えた人、機を待った人。像はそういう印象で立っている。
ただ、史料をたどると少し違う顔が見えてくる。この人は、最後まで討ち入りを選ばなかった。
千五百石の筆頭家老
大石内蔵助良雄は万治二年(1659)の生まれ。大石家は代々赤穂藩浅野家の家老をつとめた家である。
延宝五年(1677)、祖父の跡を継いで千五百石を相続した。赤穂藩五万三千石のなかで筆頭にあたる。
藩の実務を回す立場であって、戦場で名を上げる立場ではない。そこを押さえておくと、このあとの動きが読みやすくなる。
城を渡す、という仕事
元禄十四年三月、江戸から急報が届く。主君・浅野内匠頭長矩が松の廊下で刃傷に及び、即日切腹。浅野家は断絶。
赤穂城は幕府に明け渡すことになった。
このとき城内は割れている。籠城して抗議すべきという一派と、おとなしく従うべきという一派。殉死を主張する者もいた。
大石がやったのは、この調整である。そして藩札と藩の借金の処置にあたった。
ここは地味だが重要なところだと思う。藩が潰れれば藩札はただの紙になる。持っているのは領民や商人である。彼はそれを放り出さなかった。
元禄十四年四月十九日、赤穂城を脇坂安照に引き渡した。混乱も流血もない明け渡しだった。
山科に移る
赤穂を離れた大石は、家族とともに京都の山科に居を構えた。
来迎院の檀家となり、その茶室で旧藩士たちと密議を重ねたと伝わる。
そして、京や伏見の遊里に通った。
遊蕩は、芝居だったのか
個人的には、両方だったのではないかと思う。
見張られていることは知っていた。だから遊んでいる姿を見せることに意味はあった。そして同時に、本当に飲んでいた。御家再興が転ぶかどうかわからない二年間を、しらふで待てる人間はそう多くない。
大石が本当に目指していたもの
ここが、この記事でいちばん書きたいところである。
山科に移った大石が動いていたのは、討ち入りの準備ではなく御家再興の運動だった。
浅野内匠頭には浅野大学長広という弟がいた。この弟に家を継がせ、浅野家を再興する。それが大石の第一目標である。
主家が戻れば、旧藩士たちは再び仕官できる。三百人あまりの生活がかかっている。筆頭家老としては、当然こちらが本筋だった。
七月十八日と、七月二十八日
そして日付が動く。
- 元禄十五年七月十八日 … 幕府が浅野長広に広島藩お預かりを言い渡す。御家再興は絶望的になった
- 元禄十五年七月二十八日 … 京都・円山で会議。吉良義央を討つことが決定される
この間、十日である。
再興の道が閉じた十日後に、討ち入りが決まった。順番が逆ではない。忠義に燃えて機を待っていたのではなく、ほかの道が全部なくなってから、最後の道を選んだ。
円山会議では神文返しも行われている。連判に加わった者へ誓紙を返し、抜けたい者は抜けろと促した。人数を絞りにいったのである。最後まで残ったのが四十七人だった。
討ち入り、そして自首
元禄十五年十二月十四日の深夜、四十七人が本所松坂町の吉良邸に討ち入った。
吉良の首を携えて泉岳寺へ向かい、主君の墓前に供え、そして幕府に自ら届け出た。
逃げる選択肢もあったはずである。選ばなかった。これは私闘ではなく主君の仇討ちであるという主張を、行動で示す必要があったからだと思う。
細川家での日々と、切腹
浪士たちは四家の大名家に分けて預けられた。大石は熊本藩主・細川綱利のもとに置かれている。
細川家の待遇は丁重だったと伝わる。罪人としてではなく、客分に近い扱いだった。
元禄十六年(1703)二月四日、切腹。享年四十四。
幕府の判断は「忠義は認めるが、法は曲げられない」というものだった。褒めながら死なせた。この決着の仕方自体が、この事件の性格をよく表している。
笠間にも、大石邸跡がある
大石内蔵助というと赤穂だが、大石家の歴史はそれ以前から続いている。
浅野家はもともと常陸笠間(茨城県笠間市)の藩主だった。正保二年(1645)に赤穂へ移るまで、大石家も笠間で家老をつとめている。
笠間には大石邸跡と大石内蔵助像が残っている。討ち入りの舞台からは遠いが、この一族の出発点にあたる場所である。

笠間の大石内蔵助像(茨城県笠間市)。浅野家が赤穂へ移る前、大石家はここで家老をつとめていた。

大石邸跡。赤穂の名がまだ出てこない時代の、大石家の地である。
大石内蔵助銅像・場所・アクセス
〒108-0074 東京都港区高輪2-11-1
泉岳寺の境内。中門を入って右手に立つ。連判状を手にした姿で、大正十年(1921)に建立されたものである。像の先には、浅野内匠頭と四十七士の墓所がある。
大石内蔵助銅像地図
よくある疑問
Q. 大石内蔵助は「昼行灯」と呼ばれていたのですか?
A. 芝居や小説での呼び名として広まったものです。実際には赤穂城の明け渡しで藩札や借金の処置をまとめており、実務能力の高い家老でした。
Q. なぜ討ち入りまで一年九ヶ月もかかったのですか?
A. その間、大石は御家再興の運動をしていたからです。再興が絶望的になったのが元禄十五年七月十八日、討ち入りを決めたのがその十日後でした。
Q. 大石は何歳で亡くなったのですか?
A. 元禄十六年二月四日に切腹。享年四十四です。
Q. 大石の墓はどこにありますか?
A. 泉岳寺に四十七士の墓所があり、大石の墓もそこにあります。銅像から歩いてすぐです。
まとめ
大石内蔵助を「忠義に燃えて復讐の機をうかがった男」と読むと、たぶん少しずれる。
この人がまずやったのは、城を静かに渡すことだった。次にやったのは、主家を再興させることだった。討ち入りは、その二つが終わったあとに残った最後の手段である。
七月十八日に望みが絶たれ、七月二十八日に討つと決めた。この十日間が、大石内蔵助という人をいちばんよく表していると思う。
泉岳寺の像は連判状を持って立っている。あれは復讐の誓いであると同時に、ほかに方法がなくなった人の書類でもある。
