大多喜城:徳川四天王の一人本多忠勝の居城 大多喜城【お城特集 日本の歴史】

大多喜城:徳川四天王の一人本多忠勝の居城 大多喜城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
大多喜城

【大多喜城の説明】
大多喜城は大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」という名で築いたのがはじまりとされる。その後、真里谷朝信が受け継ぎ、天文13年(1544年)に、里見氏によって真里谷氏は城を奪われてしまう。

大多喜城/アクセス・場所・マップ 徳川四天王の一人本多忠勝の居城 大多喜城【お城特集 日本の歴史】

以後里見家の支城として戦国期を迎える。天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反(豊臣秀吉が全国に発令した私戦禁止令)を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、徳川四天王とうたわれた「本多忠勝」が城主に任命されて、大多喜藩10万石が誕生した。

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忠勝は本格的に城下を整備し、城下町を形成していった。しかし、慶長6年(1601年)、忠勝は関ヶ原の戦いの功績により大多喜の他に伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石を封じられる。旧領・大多喜は次男・本多忠朝に5万石で残された。

※こののち、本多忠朝は大坂の陣にて戦死してしまう。

慶長14年(1609年)6月、忠勝は家督を嫡男「本多忠政」に譲って隠居する。そして、慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。忠勝の子孫は、その後転封を繰り返し、姫路藩などを経由し、最終的に三河の国「岡崎藩」5万石に落ち着き明治維新を迎えている。

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一方、大多喜城は元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次の転封により一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。寛文11年(1671年)12月、阿部正春が1万6000石で入城したが城の再建には多大な費用がかかるため中々再建は進まなかった。

この後、青山、久世、稲垣、植村と交代、元禄16年(1703年)に松平正久が引継ぎ以後九代続いて明治維新となる。






【大多喜城・所在地・アクセス】
〒298-0216 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481

【大多喜城マップ】



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