鶴丸城:関ヶ原の戦いに敗れた島津義久・義弘の薩摩藩の城 鶴丸城(鹿児島城)【お城特集 日本の歴史】

【城名】
鶴丸城(別名:鹿児島城)

【鶴丸城の説明】
鶴丸城(別名鹿児島城)は現在の鹿児島県鹿児島市にあった島津家代々の居城である。元々は城山の山頂に「上山城」があり、上山氏が治めていたが南北朝時代からは島津氏が治める城となった。

島津家は77万石という加賀100万石に継ぐ大大名であったが、鶴丸城は本丸・二の丸・三の丸というごく一般的な構造から形成され、高石垣を用いることもなく通常の石垣があった程度である。また、天守も建立されなかった。

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城と言うよりは城山麓の「屋形造」という呼び名のほうがふさわしいと思われる。これは「武田信玄」が堅固な城を造らなかったのと同じで、国境付近に強固な城をいくつも持ち、戦闘は常に国外で行うという基本的な家風があったと言われている。

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薩摩藩2代藩主「島津忠恒」以前までは本城を「内城」としていたが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで島津家は西軍に与したことにより敗戦国となった。これに伴い防備を強化する必要に迫られ「鶴丸城」を改修し、慶長9年(1604年)に完成をみている。

しかし、徳川家康は九州最南端の島津征伐を行わず結局鶴丸城は戦闘に使われることなく、島津家も外様大名として家名を残すことになる。幕末になると「生麦事件」の報復としてイギリス艦隊が錦江湾に侵入し「薩英戦争」が勃発。鶴丸城は簡素な造りであり高層建造物もなかったためイギリス艦隊の標的にはならなかった。



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その反面、市街地の被害は甚大でこの時薩摩藩では改めて攘夷の愚かさを悟り、急速にイギリスとの距離を縮めて行くのであった。イギリスの後押しを受けて戊辰戦争を勝ち抜いたと言っても過言ではないと言われている。鶴丸城は明治7年に消失しその後は再建されることはなかった。

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現在残されている遺構も石垣や水堀、それに御楼門などあまり多くはない。本丸跡には「鹿児島県歴史資料センター」、二の丸跡には「鹿児島県立図書館」「鹿児島市立美術館」「鹿児島県立博物館」などが建っている。なお鶴丸城は日本100名城97番に指定されている。



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【鶴丸城(鹿児島城)・場所・アクセス】
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7

【鶴丸城(鹿児島城)地図】



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コメント

    • 匿名
    • 2018年 1月 28日 10:48pm

    あまり知られていませんがお城と言えるものは存在しなかったようです。
    戦国時代にもお城というよりは館といった程度のものだったと聞いてます。

    薩摩、島津家の家風として守ることよりも攻めることに徹していたのだと思われます。
    これは甲斐の武田信玄の発想と似ているかと思います。

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