歴史ブログ– category –
-
歴史ブログ
狩野派はどうやって江戸幕府の御用絵師になったのか:永徳の孫・探幽と奥絵師四家、京狩野、二条城・名古屋城に残る障壁画
狩野永徳の死後、狩野派は孫の探幽が江戸に下って幕府の御用絵師となり、奥絵師四家・表絵師・町狩野へと広がりました。京狩野、二条城二の丸御殿や名古屋城上洛殿の障壁画、幕府の終わりまでをたどります。 -
歴史ブログ
小堀家はどう生き残ったのか:秀長の死から関ヶ原、徳川の作事奉行・小堀遠州、そして天明の改易まで
秀長・秀保の死で主家を失った小堀家は、秀吉の直臣、家康の家臣と主君を替え、関ヶ原では東軍に。子の小堀遠州は作事奉行・伏見奉行として重用され近江小室藩を築きますが、子孫は伏見騒動で天明8年に改易されました。 -
歴史ブログ
島親益(島弥九郎)とは:長宗我部元親の末の弟、那佐湾の事件が阿波侵攻の口実になり、その血筋が長宗我部の名を伝えた
島親益(弥九郎)は長宗我部元親の異母弟。元亀二年、有馬温泉へ療養に向かう途中、阿波の那佐湾で海部友光の兵に襲われて亡くなった。この事件が元親の阿波侵攻の口実となり、のちに親益の系統が長宗我部の名を後世へ伝えた。 -
歴史ブログ
吉良親貞とは:長宗我部元親のすぐ下の弟、土佐の西を任され中村城に入った「軍代」と、子・親実の悲劇
吉良親貞は長宗我部元親の二つ下の弟。吉良氏の名跡を継ぎ、軍代として一条氏の土佐西部を攻め、中村城に入った。天正四年の早すぎる死と、後継問題で命を落とした子・親実まで解説。 -
歴史ブログ
松永久秀は仏罰を恐れなかったのか:『豊臣兄弟!』で竹中直人が演じた武将と、石塔の城・大仏殿炎上・十年後の同じ日の死
墓地の上に多聞山城を築いて五輪塔を石垣に使い、大仏殿が焼けた戦いの当事者となり、十年後の同じ十月十日に信貴山城で果てた松永久秀。それは神仏の罰だったのか。『多聞院日記』の記録と、秀長ら同時代の武将との比較から考える。 -
歴史ブログ
石川清兵衛はなぜ仏罰を恐れたのか:興福寺が大和の村を縛った裁き・武力・呪い「名を籠める」
『豊臣兄弟!』の石川清兵衛が仏罰を恐れたのは洗脳ではなかった。興福寺は年貢・裁判・武力・神仏の権威を一手に握り、年貢を納めない者に「名を籠める」呪いをかけた。大和の村が罰を恐れた理由を解説。 -
歴史ブログ
大和はなぜ貧しい国だったのか:豊かな土地で国主の財布だけが細かった理由と、松永・筒井から秀長の郡山へ
大和は石高では畿内有数の豊かな国。それでも国主が貧しかったのは、年貢と商売のもうけが寺社に流れていたから。松永久秀・筒井順慶の時代から、秀長が郡山に商人を集めるまでを『豊臣兄弟!』第38回の背景として解説。 -
歴史ブログ
熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのか:大坂城と京の大仏殿を支えた紀州材、熊野川の筏流しと吉川平介|『豊臣兄弟!』
熊野は昔からの良材の産地で、豊臣政権は大坂城や京の大仏殿のために熊野の木を伐り出させました。北山川・熊野川の筏流しで新宮へ運ばれた木と、その山を預かった山奉行・吉川平介の不正までを紹介します。 -
歴史ブログ
秀長は紀伊をどう治めたのか:紀州攻めのあと和歌山・湊・田辺・新宮に置いた家臣たちと吉川平介|『豊臣兄弟!』
紀州攻めのあと紀伊一国は秀長の領国になりました。和歌山城の桑山重晴、紀伊湊の吉川平介、田辺の杉若無心、日高の青木一矩、新宮の堀内氏善。秀長が紀伊のどこに誰を置き、刀狩と検地で国をどう作り替えたのかを紹介します。 -
歴史ブログ
北山一揆とは:秀長の熊野支配に山の地侍が抗った三年、藤堂高虎の赤木城まで|『豊臣兄弟!』の時代の紀伊
北山一揆は、天正十四年に紀伊の奥熊野・北山の地侍が秀長の支配に反発して起こした一揆です。秀長は自ら出陣し、藤堂高虎は赤木城を築いて三年がかりで鎮めました。原因、鎮圧した家臣、熊野の木との関わり、慶長の北山一揆との違いまで。 -
歴史ブログ
源平藤橘とは:天皇が与えた四つの氏と、秀吉が加えた五番目の氏「豊臣」|『豊臣兄弟!』第38回の背景
源平藤橘とは、天皇から与えられた源・平・藤原・橘の四つの氏の総称です。それぞれの始まりと代表的な人物、戦国武将が名のった氏、そして秀吉が帝から与えられた五番目の氏「豊臣」までを、『豊臣兄弟!』第38回の背景として紹介します。 -
歴史ブログ
本多利久と宇多頼忠とは:秀長の城を預かった二人の家臣、高取城と石田三成の舅|『豊臣兄弟!』に登場するのか
本多利久は高取城主として秀長の命で城を改修し、宇多頼忠は尾藤知宣の弟で、秀長の配慮で名を改めて家老をつとめました。頼忠の娘は石田三成の妻です。二人の経歴と秀長の死後、『豊臣兄弟!』に登場する可能性まで。 -
歴史ブログ
加藤光泰とは:秀吉の怒りで秀長に預けられた武将、大和郡山の謹慎から甲斐二十四万石へ|『豊臣兄弟!』に登場するのか
加藤光泰は美濃出身で秀吉のもと大垣城主になった武将です。直轄地を家臣に与えたことで秀吉の怒りを買い、秀長に預けられて大和郡山で謹慎。許されたのち甲斐二十四万石の大名になり、朝鮮出兵の陣中で亡くなりました。 -
歴史ブログ
尾藤知宣とは:秀吉の古参から秀長の九州攻めへ、根白坂の判断ひとつで全てを失った武将|『豊臣兄弟!』に登場するのか
尾藤知宣は秀吉の古参で、秀長の軍で四国攻めを戦い讃岐の大名になった武将です。九州攻めの根白坂で援軍を出さなかった判断をとがめられ領地を没収。弟の頼忠は秀長の配慮で宇多と名を改めました。『豊臣兄弟!』に登場するのかも予想します。 -
歴史ブログ
奈良筆とは:空海に始まる筆づくりの原点、戦国の巻筆から「練り混ぜ」の技と十四の工程まで
奈良筆は、空海が唐から伝えた製法に始まると伝わる、日本の筆づくりの原点ともいわれる筆です。寺社の町の需要、戦国の巻筆から江戸の水筆への変化、十数種類の毛を組み合わせる「練り混ぜ」、十四の工程までを紹介します。 -
歴史ブログ
秀長の三家老とは:横浜一庵・羽田正親・小川下野守の役割と、三者三様の最期 ─『豊臣兄弟!』に登場するのは誰か
豊臣秀長の大和支配を支えた三家老、横浜一庵・羽田正親・小川下野守。『豊臣兄弟!』では羽田正親(平埜生成)が第37回から登場。残る二人は登場するのか。三人の役割と得手・不得手、秀長の死後の運命まで比べます。 -
歴史ブログ
小川下野守とは:秀長の「謎の三家老」は何者か、関ヶ原で寝返った小川祐忠と同一人物説まで
豊臣秀長の三家老の一人・小川下野守は、確かな史料がほとんど残らない謎の人物です。浅井・明智を経て秀長に仕えた経歴、岐阜城の逸話、秀長の死後の消息不明、そして関ヶ原で寝返った小川祐忠と同一人物とする説を、伝承と史料を分けて整理します。 -
歴史ブログ
豊臣秀長は織田信長の直臣だったのか:最新研究が言っていることと、ネットで盛られていること
秀長は兄の家来ではなく信長の直臣だった、という説は時代考証の黒田基樹氏・柴裕之氏が支持する本物の学説です。ただしネットで広がる「馬廻だった」「単独でスカウトされた」は原文の読み違い。根拠と限界を史料から整理します。 -
歴史ブログ
座とは:戦国の商人が守った既得権益 ─ 秀長が治める奈良の商人は、寺社の下で何を守っていたのか
この記事のポイント座(ざ)とは、中世の商人や職人がつくった同業者の組合で、寺社や公家に座役(ざやく)を納めるかわりに、売り買いの独占を認めてもらう仕組みでした座を守っていたのは商人だけではありません。座役を受け取る寺社や公家もまた、同じ... -
歴史ブログ
天正の陣とは:金子元宅が小早川隆景の大軍に挑んだ伊予の四国攻め、高尾城と野々市原の千人塚
特集 ─ もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶ この記事のポイント 天正の陣(てんしょうのじん)は、天正13年(1585)の秀吉の四国攻めのうち、伊予東部(新居郡...
