歴史ブログ– category –
-
歴史ブログ
【筆者のもしも】茶々は本当は誰に嫁ぐはずだったのか:京極高次?羽柴秀勝?結城秀康? 家康・秀保・石田三成・大野治長・木村重成説まで考えてみた ─ 『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」
茶々(淀殿)が秀吉以外に嫁いでいたら? 妹の初・江の縁組から、京極高次・羽柴秀勝(於次)・結城秀康を筆者の「ありえた度」でランキング。家康・秀保、石田三成・大野治長・木村重成説の真偽と、天正11年説まで。 -
歴史ブログ
秀吉が引き抜いた・引き抜こうとした武将たち:石川数正、立花宗茂、直江兼続、片倉小十郎、伊集院忠棟… 天下人の「人たらし」と主家の悲鳴 ─ 『豊臣兄弟!』
秀吉が他家から引き抜いた・引き抜こうとした武将を一覧で。徳川の石川数正、大友の立花宗茂、毛利の小早川隆景、龍造寺の鍋島直茂、島津の伊集院忠棟、誘いを断ったと伝わる直江兼続・片倉小十郎まで。 -
歴史ブログ
石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのか:「筒抜け」を恐れて軍制を武田流(甲州流)に改めた家康と、小笠原貞慶の離反、天正地震まで ─ 『豊臣兄弟!』
石川数正の出奔で徳川の手の内は秀吉に筒抜けになりかねなかった。家康が軍制を武田流(甲州流)に改めたという話の真偽、小笠原貞慶の離反、十六日後の天正地震まで、出奔の影響を整理。 -
歴史ブログ
秀吉の側室は何人いたのか:茶々・松の丸殿・加賀殿・三の丸殿・姫路殿…寧々はどう向き合ったのか ─ 『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の背景
秀吉の側室で名前と出自がわかるのは十人ほど。フロイスの「三百人」は誇張。茶々・松の丸殿(京極竜子)・加賀殿・三の丸殿・姫路殿らの出自と呼び名、寧々の立場、醍醐の花見の杯争いの真相まで。 -
歴史ブログ
大政所(なか)とは:『豊臣兄弟!』坂井真紀が演じる秀吉・秀長の母 ─ 岡崎へ送られたのは人質と知っていたのか、娘に会いたかっただけなのか
この記事のポイント大政所(なか)は、秀吉・秀長・旭・ともの母です。永正13年(1516)に尾張で生まれ、秀吉が関白になった天正13年(1585)に「大政所」の称号を受けました天正14年(1586)、「娘の旭の見舞い」という名目で三河の岡崎へ送られました。... -
歴史ブログ
甚助(副田吉成)とは:『豊臣兄弟!』前原瑞樹が演じるあさひ(旭姫)の夫は実在? ─ 家康との縁組で離縁させられた男の石高・その後と、旭姫の最期
この記事のポイント『豊臣兄弟!』で前原瑞樹さんが演じる甚助は、秀吉・秀長の妹「あさひ(旭姫)」の夫で、史実の副田甚兵衛吉成がモデルです。旭の前夫には、副田吉成説と佐治日向守説の二つがあります副田吉成は尾張出身で、秀吉の直臣でした。秀長の... -
歴史ブログ
第一次・第二次上田合戦:真田昌幸はなぜ二度、桁違いの徳川勢を退けられたのか ─ 尼ヶ淵の崖、町ごと囲う惣構え、引き込んで叩く兵の使い方
七千対二千、三万八千対二千五百。真田昌幸は上田城で二度、桁違いの徳川勢を退けました。地形・縄張・兵の使い方の三つと、あまり語られない「勝ちを決めたのは城の外だった」という事情まで。 -
歴史ブログ
徳川と真田がもめた沼田はどんな土地だったのか:領地図で見る沼田・名胡桃・岩櫃・上田の四つの城と、秀吉の「三分の二と三分の一」
『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が和睦を命じた徳川と真田の対立。争点は上野の沼田ひとつでした。真田昌幸の言い分、第一次上田合戦、谷原章介が演じる北条氏政の思惑、そして四年後の沼田裁定までを領地図とともに。 -
歴史ブログ
真田家とは:幸隆・信綱・昌輝・昌幸・信之・信繁(幸村)の三代六人 ─ 『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が「徳川と和睦せよ」と命じた信濃の一族
この記事のポイント真田家は、信濃国小県郡の真田郷(いまの長野県上田市真田町)を本拠とした一族です。武田信玄に仕えた真田幸隆(幸綱)が家を大きくし、子の昌幸、孫の信之(信幸)と信繁(幸村)へと続きました幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は、天正3... -
歴史ブログ
秀長は本当に秀吉に茶々を勧めたのか:『豊臣兄弟!』第39回の予告と史実 ─ 記録はないが、茶々の城を建てたのは秀長だった
この記事のポイント秀長が秀吉に、茶々を側室として迎えるよう勧めたことを記した史料は見当たりません。第39回の予告にある筋立ては、ドラマの創作とみられます時期もずれています。第39回の舞台は天正13〜14年ごろですが、茶々が側室になったのは天正16... -
歴史ブログ
秀吉に実子はいたのか:長浜の石松丸、鶴松、秀頼 ─ 『豊臣兄弟!』で茶々が求められた「後継者」の史実
この記事のポイント秀吉の実子として確かなのは、茶々(淀殿)が産んだ鶴松と秀頼の二人です。正室の寧々とのあいだに子はいませんでした長浜城主のころ、「石松丸」という男子がいたことが記録に残り、天正4年(1576)10月に亡くなっています。ただし、実... -
歴史ブログ
茶々は弓が得意だったのか:『豊臣兄弟!』で井上和が演じる茶々の弓と、大坂冬の陣で武具をまとった淀殿の史実
この記事のポイント茶々(淀殿)が弓を得意としていたことを示す記録は、見当たりません。ドラマで茶々が弓を引く場面は、創作とみられますただし、江戸時代の初めにまとめられた『当代記』には、大坂冬の陣のとき淀殿が武具を身につけ、武装した女房を三... -
歴史ブログ
茶々(淀殿)は本当に悪女だったのか:医学天正記に残る「気鬱」 ─ 曲直瀬玄朔が診た、気の強さだけではない素顔
この記事のポイント豊臣家の医師・曲直瀬玄朔の診療記録『医学天正記』には、慶長6年(1601)6月、淀殿が「気鬱」で食が進まず、めまいや頭痛に悩んで薬を処方されたことが記されています慶長8年(1603)5月にも、気鬱に加えて胸の痛み、食の衰え、頭痛で... -
歴史ブログ
茶々(淀殿)の生涯:『豊臣兄弟!』で井上和が演じる浅井三姉妹の長女 ─ 浅井家の血筋、二度の落城、秀吉の妻、秀頼の母、大坂城の最期と墓・ゆかりの地まで
茶々(淀殿)の生涯を一つにまとめた完全ガイド。浅井長政とお市の方の長女としての血筋、小谷城・北ノ庄城の二度の落城、秀吉の妻、寧々との関係、鶴松と秀頼、秀次事件、関ヶ原、大坂の陣の最期、秀頼の遺児、墓とゆかりの地まで。 -
歴史ブログ
秀吉はなぜ城をいくつも建てたのか:大坂・聚楽第・名護屋・伏見、四つの拠点の役割分担
秀吉は移り住んだのではなく、役割を分けて同時に持っていました。軍事と経済は大坂、朝廷と向き合う政庁は京の聚楽第、朝鮮出兵の司令部は肥前名護屋、晩年の拠点が伏見。そして建てるのと同じ熱心さで壊してもいました。 -
歴史ブログ
秀長はなぜ商人に金を貸したのか:戦国は大名が借りる側だった、その逆を回した郡山の町づくり
戦国では大名が商人から借りるのが普通でした。島井宗室も神屋宗湛も大名貸しで富を築いた側です。秀長はその逆を回しました。借り賃を免じ、開業の元手を貸す。天正十七年には奈良町と郡山町へ公金を貸した記録も残っています。 -
歴史ブログ
城代とは何か:秀長が三か国を治めるために置いた留守居たちと、和歌山を預かった桑山重晴
城代は城主の代わりに城を預かる役ですが、兵を集める権限と褒美を出す権限は持ちませんでした。秀長は大和・紀伊・和泉を、自ら入る国、城代を置く国、代官に任せる国と三通りに分けています。和歌山を預かった桑山重晴の話。 -
歴史ブログ
聚楽第は城なのか館なのか:堀四十三メートル、馬出三か所、それでも秀吉は「やしき」と書いた
堀は幅四十三メートル深さ十メートル、石垣は堀底から十二メートル、馬出が三か所。構造はまぎれもなく城です。それなのに秀吉自身は「しゆらくやしき」と書きました。なぜ城と呼ばなかったのか、なぜ八年で自ら壊したのか。 -
歴史ブログ
戦国の筆は何の毛でできていたのか:ヤクは実在したが兜の飾りだった、「羊毛の筆」の羊は羊ではない
正倉院に残る十七本はすべて兎・狸・鹿・馬という国産の毛でした。筆の羊毛は実は山羊の毛で、戦国の日本に羊はほとんどいません。ではヤクは。兜の飾りとして確かにありました。才蔵の筆の配合を史料から検証します。 -
歴史ブログ
『豊臣兄弟!』でカトウシンスケが演じる川窪清俊とは:奈良の豪商は実在したのか、「国主は我ら商人だ」と言えた理由と手のひら返し
第38回に登場する奈良の豪商・川窪清俊は史料に名がありません。ただし彼が代表する立場は実在しました。興福寺の座が商いを押さえ、国主が根を張れなかった大和。「この国の国主は我ら商人だ」と言えた根拠を史料から追います。
