■ 日本の歴史ブログ
織田信長の最盛期は全国の1/3を領し推定石高は約780万石?
日本全国で覇を競った戦国武将たちでしたが、実際に信長のように天下統一を目指した大名は数少ない。多くの戦国大名がそれぞれの領土を死守し、地方を経営することしか考えていなかった時代、信長は次の国家像を思い描き、その軍事力によって中央集権国家を樹立しようとした唯一の人物でした。
「本能寺の変」の直前、織田軍の最大勢力範囲は全国の三分の一におよんだ。推定石高は約780万石。これは国内総石高の四割に相当する数値です。信長がたった一代で作り上げたこの勢力基盤は、のちに秀吉の天下統一、徳川家康による江戸幕府成立に引き継がれていくことになるのです。
※写真は信長最盛期に築城した安土城跡と安土山

「三分の一」と「四割」は、何が違うのか
信長の勢力を表すとき、「全国の三分の一」とも「総石高の四割」とも言われます。数え方が違うだけで、どちらも同じ状態を指しています。国の数で数えれば六十六か国のうち二十数か国で、およそ三分の一。米の取れ高で数えれば、当時の日本全体をおよそ千八百万石とみて、そのうち七百数十万石ですから四割に届きます。豊かな畿内と東海を押さえていたぶん、面積より石高のほうが大きく出るわけです。
そもそも信長の時代に「石高」はあったのか
ここは注意が要ります。全国の土地を米の量で測り直したのは、秀吉の太閤検地です。信長の時代は貫高(銭の額)で表す地域も多く、国ごとの数え方もそろっていませんでした。ですから「信長の石高は何万石」という数字は、のちの検地の結果をもとにした推定にすぎません。目安として使うにはよくても、厳密な数値ではないということです。
本能寺の直前が、その最大版図
信長の領域が最も広がったのは、本能寺の変の直前です。畿内を中心に、東は東海・北陸、西は中国地方の入口までを押さえ、家臣を方面軍の司令官として各地に置いていました。羽柴秀吉は中国、柴田勝家は北陸、明智光秀は丹波というかたちです。一代でここまで広げた基盤が、そのまま秀吉の天下統一の土台になりました。
数字より、どこを押さえたか
信長の強さは、石高の大きさだけでは説明できません。京と堺、琵琶湖の水運、東海道と中山道という、人と物と銭が動く線を握ったことが大きいのです。その中心に置いたのが安土城でした。城を琵琶湖のほとりに構えたこと自体が、どこを押さえるつもりだったかを語っています。

