堀江藩/大沢家1万石:大沢基寿 明治維新のどさくさに紛れて諸侯に列した高家出身の堀江藩【幕末維新写真館】

堀江藩/場所・アクセス・地図 大沢家1万石:大沢基寿 明治維新のどさくさに紛れて諸侯に列した高家出身の堀江藩【幕末維新写真館】

【藩名】
堀江藩

【説明】
幕末から明治維新の頃の当主である第20代「大沢基寿」は、和宮親子内親王降嫁に際してはその付添役を務め、「徳川慶喜」の「大政奉還」ではその旨を朝廷に伝奏する重責をになう。さらに新政府軍の東征に際してその案内役を務めたことにより、新政府から従来どおりの堀江領3550石の知行を安堵される。

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明治元年(1868年)8月に新政府に対して行った検地報告で、堀江領は実高5485石に過ぎなかったが、基寿は浜名湖の湖面の一部を「開墾予定地」として架空の新田内高4521石を計上し、都合1万6石という虚偽の報告を行なった。当時新政府樹立で混乱と極めた新政権はこの報告の裏付けもとらずに額面通りに受理した結果、堀江領は万石を知行する諸侯に列し、堀江藩藩主として認められることになる。

そして翌明治2年(1869年)の「版籍奉還」により堀江藩知事となり、華族の身分を得ることに成功する。明治4年(1871年)の「廃藩置県」で堀江県が置かれると基寿は堀江県知事に任じられた。この廃藩置県当時現在の静岡県内に存在したのは、韮山県(伊豆国)・静岡県(駿河国と遠江国)と、この堀江県の3県だけだった。

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その後、表高3550石の高家にすぎない大沢家の1万6石への石直しはあまりにも不明確な部分が多かったため、新政府が再調査したところ虚偽が露見する。同年11月、基寿は士族へ落としたうえ禁錮1年、実際の虚偽申告を行った家臣5名は平民へ落としたうえ禁錮1年半という処罰が下る。また堀江県は浜松県に合併され、堀江県は消滅した。

明治維新のどさくさの混乱期に生じた珍事の一つといっても過言ではない。

【場所・アクセス・地図】










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