阿坂城跡(白米城・松阪市):全国にある白米の伝説と、山城を落とす水の話

阿坂城:織田信長家臣木下藤吉郎により落城 北畠家家臣 大宮入道含忍斎の居城 阿坂城

阿坂城(あざかじょう)は、松阪市の西にそびえる桝形山の上にあった山城です。南北朝のころ、伊勢に入った北畠親房が築いた城のひとつと伝えられます。南の曲輪は白米城、北の曲輪は椎之木城と呼ばれました。織田信長の伊勢攻めでは木下藤吉郎が攻め、落城しています。山頂には石碑が立ち、伊勢平野と海を見わたせます。

この記事のポイント
  • 桝形山の頂に築かれ、二つの曲輪からなる南朝方ゆかりの山城
  • 白米城の名は、水がないのに水があるように見せた伝説に由来する
  • 同じ筋書きの伝説は全国にあり、山城の弱点が水にあったことを示す
  • 信長の伊勢攻めで落ち、北畠氏の本拠が追いつめられていく起点となった

阿坂城のあゆみ建武二年(一三三五)北畠親房が伊勢に入り、南勢に城を構える応永二十二年(一四一五)北畠満雅が幕府に対して挙兵し、この城に籠もる永禄十二年(一五六九)信長の伊勢攻めで木下藤吉郎が攻め、落城するその後城は使われなくなり、山上に曲輪だけが残る

目次

桝形山の上の二つの城

阿坂城は、標高三百メートルあまりの桝形山の頂にあります。麓からの比高は二百メートルを超え、登るとそれなりに息が上がります。山頂の平場が南の曲輪、少し離れた北の高まりが北の曲輪で、その間を堀切が断ち切っています。石垣はなく、土を削り出した曲輪と堀だけの、中世の山城そのものの姿です。

この山に城が置かれた理由は、登ればすぐにわかります。東は伊勢平野が一望でき、その先に伊勢湾が光ります。西は山が重なり、山越えの道へ通じます。平野の動きを見張り、山へ退けるという、南朝方の拠点にふさわしい立地でした。

山頂に立つ石碑

山頂の平場に据えられた大きな自然石の碑。まわりに石が並び、背後には山並みが重なって見える。

北畠氏と南朝の城

建武二年(一三三五)、北畠親房は子の顕家・顕信・顕能をともなって伊勢に入りました。南朝を支えるための拠点づくりで、伊勢南部にいくつもの城が築かれます。阿坂城はそのうちの一つと伝えられています。以後、北畠氏は伊勢国司として、この地に長く根を下ろしました。

応永二十二年(一四一五)、北畠満雅が幕府に対して兵を挙げたとき、この城が舞台になりました。南北朝の合一ののちも、北畠氏と幕府の関係は落ち着かず、伊勢ではたびたび衝突が起きています。山城が実際に使われた時代の記録として、この籠城は貴重です。

白米城という名の由来

▽ よく語られる話
水を断たれた城方が、馬に白米を流しかけて水浴びに見せかけた。まだ水が豊かにあると思った寄せ手は攻めあぐねた。だから白米城と呼ばれる。
▼ 史実ではこうです
同じ筋書きの伝説は、全国の山城に数十例あります。馬を洗う話、米を滝のように落とす話など細部は違いますが、骨組みはどこも同じです。特定の城で実際に起きたことの記録というより、語りの型と考えるのが自然でしょう。ただし、この型がこれほど広まったこと自体が、ひとつの事実を語っています。山城の生死を分けるのは水だった、ということです。井戸が枯れれば、どれほど険しい山でも持ちません。白米城の伝説は、その弱点を裏返して語った物語です。

伝説の伝わり方は土地によってさまざまで、阿坂城でも細部の違う語りが残っています。伝説そのものを否定する必要はありません。城跡に登って井戸跡や水の手を探しながら歩くと、この話がなぜ生まれたのかが見えてきます。

秀吉が矢を受けた城

永禄十二年(一五六九)、信長の伊勢攻めにあたって、この城を攻めたのが木下藤吉郎でした。城は落ち、このとき藤吉郎は矢を受けて負傷したと伝えられます。のちの秀吉が戦場で傷を負った数少ない記録のひとつです。

阿坂城が落ちたことで、北畠方は平野側の守りを失いました。信長の本隊は南下し、大河内城を囲みます。五十日の籠城のすえ、北畠具教は信長の次男を養子に迎えるという条件で講和しました。阿坂城の落城は、その流れの入口にあたります。

阿坂城跡の訪ね方

登り口は松阪市大阿坂町の浄眼寺のあたりで、そこから山道を四十分ほど登ると山頂に着きます。よく歩かれている道で、標識も整っています。山頂は草地の広場になっており、伊勢平野と海を見わたせます。天気のよい日は、遠く松坂城のある市街まで見通せます。

伊勢の城をめぐるなら、霧山城、大河内城、田丸城と結ぶと、北畠氏が山から平野へ、そして織田の支配へと移っていく流れがひと続きに見えます。

所在地:〒515-2342 三重県松阪市大阿坂町桝形山

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