※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
菩提山城(ぼだいさんじょう)は、岐阜県不破郡垂井町にある標高四百二メートルの山城で、戦国の軍師・竹中半兵衛(重治)の居城です。山頂からは濃尾平野が一望でき、はるか東には半兵衛がわずかな手勢で乗っ取った稲葉山(金華山)まで見渡せます。すぐ西は関ヶ原。発掘では山の上の御殿の礎石と、碁石や天目茶碗が見つかっています。
- 西美濃最大級の山城。父・竹中重元が岩手氏を破り、その翌年に築いたと伝わる
- 山頂から稲葉山(金華山)まで見えます。半兵衛は自分の城から、奪った城を眺めていた
- 発掘で礎石十基の建物跡と、碁石・天目茶碗・中国産の陶磁器などが出土
- 息子の重門は関ヶ原の戦いで東軍につき、家康にこの城を差し出した
菩提山城とは|竹中半兵衛が育ち、暮らした山城
菩提山城は伊吹山系の東の端、垂井町岩手の菩提山に築かれた山城です。城域は東西約百五十メートル、南北約三百メートルにおよび、西美濃では最大級の規模をもちます。城主は竹中氏。竹中半兵衛(重治)はこの城に住み、美濃の斎藤氏に仕えたのち、織田信長、そして羽柴秀吉の下で働きました。半兵衛が稲葉山城を奪った事件と、秀吉に仕えるまでの経緯は竹中半兵衛はなぜ城を奪い、返したのかで、人物像と「二兵衛」官兵衛との違いは竹中半兵衛とはで詳しく書いています。

山頂の本曲輪。標柱と休憩用のテーブルが置かれ、冬の木立の向こうに山並みが続きます。
どこにある?関ヶ原のすぐ東、濃尾平野を見下ろす山
菩提山は垂井町の北西にそびえ、西へ山を越えればすぐ関ヶ原です。山頂の城跡からは関ヶ原の方角も、東に広がる濃尾平野も見渡せ、晴れた日にはかなたの金華山まで目に入ります。美濃と近江を結ぶ中山道と、関ヶ原へ抜ける道筋を真上から押さえる位置にあり、のちに天下分け目の合戦がこの一帯で行われたのも偶然ではありません。合戦の全体像は関ヶ原の戦いをわかりやすく解説をご覧ください。
誰が築いた?岩手氏の城から竹中氏の城へ
現地の説明板によると、この山にはもともと土豪の岩手氏の城がありました。『美濃国諸家系図』では応永年間に岩手氏が「岩手山城」を構えたとされ、確かな記録としては、天文年間に美濃守護の土岐頼芸が岩手四郎に宛てた書状が最も古いものです。永禄元年(1558年)、半兵衛の父・竹中遠江守重元が岩手氏を攻め落とし、福田・長松(いまの大垣市)とあわせて六千貫の領地を得ます。翌年、この山に新たに城を築いたのが菩提山城の始まりとされています。竹中氏はその後、斎藤道三・義龍・龍興の三代にわたって斎藤家に仕えました。のちに半兵衛が秀吉の下で「二兵衛」と並び称されるまでの歩みは竹中半兵衛の史実解説にまとめています。
山頂から稲葉山が見えた|半兵衛の城乗っ取り
永禄七年(1564年)、半兵衛は主君・斎藤龍興の居城である稲葉山城を、わずかな手勢で乗っ取りました。その稲葉山、つまり金華山は、菩提山城の山頂から東の地平に見えています。半兵衛は自分の城から、主君の城を毎日のように眺めていたことになります。墨俣一夜城など秀吉の美濃攻めとの関係は墨俣一夜城は本当にあったのかで扱っています。
山の上に御殿があった|発掘でわかったこと
近年、垂井町が国史跡の指定をめざして総合調査を行い、山頂の主郭と台所曲輪を発掘しました。主郭からは礎石が十基見つかり、四間×四間以上の礎石建物が建っていたことがわかっています。山城の頂上に据えられた本格的な建物で、山上の御殿だった可能性が高く、竹中氏が築いたものと考えられています。戦のときだけ籠もる砦ではなく、城主が暮らし、客を迎える場所が山の上にあったわけです。稲葉山を手に入れた信長も、山上と山麓に御殿を構えました(信長の美濃攻めと墨俣)。西美濃の山城でも、同じように山の上で暮らす城づくりが行われていたことになります。

山中に残る石積み。苔に覆われ、曲輪の縁を今も支えています。
碁石と天目茶碗|城跡から出たもの
発掘で出土した遺物は約二百五十点。かわらけ(素焼きの皿)、天目茶碗、擂鉢、中国から渡ってきた染付・青磁・華南三彩などの陶磁器に加えて、碁石が見つかりました。ほかに土錘、刀剣や釘、瓦、古銭、砥石も出ています。天目茶碗は茶の湯に、かわらけは酒宴や儀式に使われる器です。山上の御殿で茶を点て、碁を打ちます。そうした暮らしが山頂にあったことを、碁石は静かに語っています。「今孔明」とも呼ばれた軍師の城から碁石が出たという事実は、それだけで想像をかき立てますが、誰が打った石かまではわかりません。半兵衛の人となりについては竹中半兵衛はなぜ城を奪い、返したのかもどうぞ。

山上の御殿で碁を打つ半兵衛のイメージ(イラスト)。城跡からは実際に碁石が出土しています。
半兵衛の死と、官兵衛の息子をかくまった話
秀吉の与力となった半兵衛は、中国攻めに従います。天正六年、荒木村重に説得に向かった黒田官兵衛が有岡城に幽閉されると、信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、人質の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じました。このとき半兵衛が松寿丸をひそかに自分の領地にかくまい、命を救ったと伝わります。翌天正七年(1579年)、半兵衛は播磨の三木城を囲む陣中で病に倒れ、三十六歳で亡くなりました。二人の軍師の最後の日々は三木の干殺しと、二人の軍師に書いています。
息子の重門と関ヶ原|家康に城を差し出す
家督を継いだのは嫡男の竹中重門です。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、重門ははじめ西軍に属しながら東軍に転じ、徳川家康に菩提山城を提供しました。関ヶ原のすぐ東、合戦場を見下ろす山城が東軍の手に渡った意味は小さくありません。戦後、重門は山を下りて麓の岩手に陣屋を構え、菩提山城は役目を終えて廃城となります。竹中氏は旗本としてこの陣屋で江戸時代を通じて続きました。

白山神社の石柱と石段。城跡へ向かう道の途中にあります。
縄張りと見どころ|本曲輪・堀切・竪堀
山頂の本曲輪を中心に、二の曲輪、三の曲輪、西の曲輪、出丸が連なり、周囲には小さな削平地がいくつも刻まれています。尾根を断ち切る堀切、斜面を縦に走る竪堀、急な切岸、水の手(水場)の跡も確認でき、土の城としての見ごたえは十分です。石垣で固めた近世の城とは違い、山そのものを削って守りに変えた戦国の山城の姿がよく残っています。半兵衛が仕えた秀吉の城づくりと比べるなら、秀吉・秀長ゆかりの城めぐりも参考になります。

現地の説明板と縄張図。本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・西の曲輪・出丸、堀切や竪堀の位置が描かれています。

城跡へ続く石段の登城道。冬は雪が残ることもあります。
菩提山城への行き方
JR東海道本線の垂井駅から歩いて約六十分。大手道の入口に立つ看板には、城跡まで千九百五十メートルとあります。山道はハイキングコースとして整備され、駐車場もあります。麓の竹中氏陣屋跡とあわせて歩くと、山の城から里の陣屋へ移った竹中氏の歩みがよくわかります。関ヶ原古戦場とも近く、半日あれば両方をめぐれます。関ヶ原の戦いの予習をしてから出かけるのがおすすめです。
【菩提山城・場所・アクセス】
〒503-2107 岐阜県不破郡垂井町岩手
【菩提山城地図】
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