石巻城(いしのまきじょう)は、北上川の河口を見おろす日和山にあったとされる城です。奥州合戦の恩賞としてこの地を得た葛西清重が築いたと伝えられ、以後、葛西氏の拠点のひとつとなりました。ただし築城を記す同時代の史料はなく、現地の説明板も伝承として記しています。城跡は日和山公園と鹿島御児神社になっており、港と海が一望できます。
- 北上川の河口と港を見おろす高台にあった城
- 葛西清重の築城は伝承で、発掘では中世の城館の跡が確認されている
- 葛西氏はのちに本拠を寺池城へ移し、石巻城は役目を終えたとみられる
- 小田原に参陣しなかったことで葛西氏は改易され、大規模な一揆が起きた

冬枯れの木の下に立つ「史跡 石巻城址」の石碑。まわりは低い植込みで、城の遺構は地表には見あたらない。
川と海が交わる場所
日和山は、北上川が海へ注ぐ地点にせり出した独立した丘です。高さは六十メートルほどですが、まわりが平地と水面なので、見晴らしはきわめて広い。川をさかのぼる舟も、沖を通る船も、ここから見えます。中世の東北では、河川と海がそのまま物流の幹線でした。北上川は内陸の年貢と産物を運び、河口の港がそれを海の船に積みかえます。
城が置かれるのは、そういう結節点です。石巻城は山の上に立てこもるための城というより、港と川筋を押さえるための拠点でした。日和山という名前そのものが、船乗りが天候を見きわめた場所であることを示しています。

高台から北上川の河口と海を見わたす。川に橋が架かり、その先に港と防波堤、水平線に島影が並ぶ。
葛西氏という一族
葛西氏は、もとは下総の葛西を本貫とする武士です。葛西清重は源頼朝に従って奥州合戦に加わり、その恩賞として陸奥に広い所領を与えられました。奥州総奉行として、鎌倉幕府の東北支配の一端も担っています。鎌倉の御家人が東北に根を下ろした代表的な例です。
以後、葛西氏は北上川の流域に勢力を保ち、戦国期には七郡を治めたとも伝えられます。ただし一族や家臣の自立性が高く、当主の力が領内すみずみまで及ぶ体制ではありませんでした。北の南部氏、西の大崎氏、南の伊達氏にかこまれ、たびたび争っています。
ここに城はあったのか

石巻市教育委員会が立てた説明板。清重の所領と居館の伝承、発掘調査で中世の城館が確認されたことが記されている。
寺池城への移転と、葛西氏の終わり
戦国期の当主・葛西晴胤は、本拠を内陸の寺池城へ移したと伝わります。これにより石巻城は役目を終えたと考えられています。河口の港よりも、内陸の家臣団を束ねる位置を選んだということでしょう。
天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことを理由に、葛西氏は改易されました。同じく改易された大崎氏の旧領とあわせて、この地域では大規模な一揆が起こります。葛西大崎一揆です。鎮圧には伊達政宗があたりましたが、政宗が一揆を裏で煽ったのではないかという疑いがかけられ、政宗自身が弁明に追われました。
その後、政宗は岩出山城へ移り、さらに仙台城を築いて新しい城下町をつくります。石巻は仙台藩の港町として発展し、北上川の舟運で運ばれた米が江戸へ送られる積み出し口になりました。城の時代が終わったあとも、この河口の重要さは変わっていません。
石巻城跡の訪ね方
城跡は日和山公園として整備され、鹿島御児神社が鎮座しています。石巻駅から歩いて三十分ほど、車なら数分で上まで上がれます。桜の名所であり、港と海を見わたす展望の場所でもあります。丘の上と下の高低差がそのまま城の守りだったことは、坂を登ってみるとよくわかります。
この高台は、災害のときに人が逃げのぼる場所でもありました。中世に城が置かれた理由と、今も人が集まる理由が、同じ地形から来ています。眺めを楽しむだけでなく、その意味を考えながら立つと、この丘の見え方が変わります。
所在地:〒986-0833 宮城県石巻市日和が丘2丁目地内

