真田丸の戦いとは|安藤政信が演じる幸村が徳川の大軍を打ち破った慶長19年12月4日 ─ 篠山の挑発、空堀への誘いこみ、城内の爆発と家康の叱責【イラスト】|ドラマ『真田十勇士』予習

真田丸の柵の内側から一斉に鉄砲を撃つ赤備えの真田勢と、空堀に押し寄せる徳川方の大軍(イラスト)
この記事のポイント
  • 真田丸の戦いは、慶長19年(1614)12月4日、大坂冬の陣で起きた最大の激戦です。真田信繁(幸村)が大坂城の南に築いた出城「真田丸」に、前田利常・井伊直孝・松平忠直らの徳川方の大軍が攻めかかり、さんざんに打ち破られました
  • 戦いのきっかけは、真田丸の前にある小高い丘「篠山(ささやま)」からの真田勢の鉄砲でした。前田勢が夜明け前に篠山を奪いに行くと、もぬけの殻。真田勢にあざけられた前田勢は、そのまま真田丸へ突っこんでいきます
  • 空堀に飛びこんだ徳川方は、柵の内側から一斉に鉄砲を浴びせられて大損害を出しました。城内で起きた火薬の爆発を「内通者の合図」と思いこみ、井伊・松平の軍勢まで押し寄せて、被害はさらに広がりました
  • 徳川方の戦死者は、公家の日記に「前田勢三百騎、松平勢四百八十騎」と記されています。家康は命令のないまま攻めかかった大名たちを叱り、このあと力攻めをやめて、大砲と和議で城を追いつめていきます

真田丸の戦いは、大坂冬の陣でもっとも激しい戦いとして知られます。11月6日に放送されたドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第3話のラストで、城を出て戦う策を退けられた幸村(安藤政信さん)は、大坂城の外に出城を築くことを提案しました。これがのちに「真田丸」と呼ばれる砦です。では、史実の真田丸では、どのような戦いがくり広げられたのでしょうか。真田丸がどんな出城で、どこにあったのかは「真田丸とは」で紹介しました。この記事では、慶長19年(1614)12月4日の真田丸の戦いを、前夜から決着、その後まで、時間を追って詳しくたどります。

目次

真田丸の戦いの前 ─ 大坂城の南に張り出した出城

大坂城は、北を淀川、東を大和川や湿地、西を海に近い低地に守られた堅い城でした。ただ南側だけは、上町台地が平らに続いていて、大軍が攻め寄せやすい弱点になっていました。信繁はこの南側、惣構(城下町までぐるりと囲む外側の堀と土塁)の外に張り出すように、出城を築きました。

真田丸には、空堀と塀、柵が二重三重にめぐらされ、塀には鉄砲を撃つための狭間(穴)が開けられていたと伝わります。守るのは信繁の手勢およそ五千(六千とも)。兵たちは鎧や旗をそろって赤く染めた「赤備え」でした。赤備えは、かつて武田家の精鋭が用いたもので、武田家に仕えた真田家にとっても誇りのある装いでした。

一方、真田丸の正面に陣を敷いたのは、加賀の前田利常です。その西には井伊直孝、松平忠直(家康の孫)、さらに藤堂高虎らの軍勢が並び、大坂城の南側には徳川方の大軍がひしめいていました。

大将 軍勢と立場
真田信繁 豊臣方。真田丸を守る。手勢およそ五千(六千とも)、赤備え。子の大助も加わった
前田利常 徳川方。加賀百万石の当主で、このとき22歳。およそ一万二千。真田丸の正面に陣取った
井伊直孝 徳川方。井伊直政の次男で25歳。およそ四千。真田丸の西、八丁目口の前に陣取った
松平忠直 徳川方。越前の大名で家康の孫、20歳。およそ一万。井伊勢と並んで八丁目口・谷町口に向かった
藤堂高虎 徳川方。築城の名手として知られる古強者。松平勢の西に陣取った

徳川方の大将の多くが二十代の若者だったことも、真田丸の戦いの行方に影響したといわれます。大坂城に集まった豊臣方の顔ぶれは「大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのか」で紹介しています。

真田丸の戦いの位置関係図。大坂城の惣構の南東に張り出した真田丸、その前の篠山、八丁目口・谷町口と、南に並ぶ前田・井伊・松平・藤堂の陣(イラスト図)
真田丸の戦いの位置関係(イメージ図)。南(手前)から北の大坂城を見たところで、真田丸は惣構の南東に張り出していた

真田丸の戦いの前夜 ─ 篠山からの鉄砲と、前田勢の夜襲

真田丸の前には、「篠山(ささやま)」と呼ばれる小高い丘がありました。信繁はここに鉄砲を持った兵を置き、城に近づくための堀や土塁を掘り進める前田勢の人夫たちを狙い撃たせました。前田勢は工事が進まず、多くの死傷者を出していきます。

業を煮やした前田利常は、家臣の本多政重らに篠山を奪うよう命じます。12月3日の夜、前田勢はひそかに篠山へ忍び寄り、4日の夜明け前に一気に攻め上りました。ところが、そこに真田勢の姿はありませんでした。信繁は前田勢の動きを読んで、あらかじめ兵を引きあげさせていたのです。

真田丸の戦いの前夜、夜明け前の丘の上で、松明を手に立ちつくす徳川方の兵たち(イラスト)
夜明け前、篠山に攻め上った前田勢。そこに真田勢の姿はなかった(イメージ)

空振りに終わった前田勢に向かって、真田丸の中から真田勢がはやし立て、あざけりの声を浴びせたと伝わります。夜通しの攻めが空振りに終わったうえに笑い者にされた前田勢は、怒りにまかせ、命令を待たずに真田丸そのものへ攻めかかっていきました。

真田丸の戦いの始まり ─ 空堀に誘いこまれた前田勢

前田勢が真田丸の空堀に飛びこみ、塀や柵に取りつこうとしたそのとき、真田丸の中から一斉に鉄砲が火を噴きました。空堀の中は逃げ場がなく、上からは狙い放題です。前田勢は先陣も二陣も崩れ、多くの死傷者を出しました。

信繁は、わざと敵を引きつけ、十分に近づいたところで鉄砲を浴びせる戦い方をとっていました。堀の深さ、柵の位置、狭間の向きなど、真田丸の作りそのものが、敵をここへ誘いこんで撃つための仕掛けになっていたのです。

▽ よく語られる話
真田丸の戦いは、真田幸村がたった一人の知略で、徳川の大軍を打ち破った戦いだった。
▼ 史実ではこうです
信繁の采配が勝利の鍵だったのは確かですが、真田丸だけで戦ったわけではありません。すぐ西の八丁目口・谷町口では、長宗我部盛親や木村重成らの豊臣方も、押し寄せる井伊・松平勢を撃退しました。のちの記録『長沢聞書』には、真田丸は長宗我部と信繁が守りを分けあっていたのに、世間では信繁一人の出城のように言われるようになった、という趣旨の話も残っています。

城内の爆発 ─ 「内通の合図」という思いこみ

ちょうどそのころ、八丁目口の近くの豊臣方の陣で、大きな爆発が起きました。豊臣方の武将・石川康勝の陣で、兵が誤って火縄を火薬の桶に落とし、火薬が爆発したのだと伝わります。

この爆発が、真田丸の戦いの流れをさらに大きく変えました。豊臣方の武将・南条元忠が徳川方に内通し、合図とともに城内から寝返る手はずになっている、という話が徳川方に伝わっていたからです。実際には、南条の内通はすでに豊臣方に見破られ、南条は切腹させられていました。けれども、それを知らない徳川方は、爆発を「内通者の合図だ」と思いこみ、井伊直孝・松平忠直の軍勢も、遅れてはならじと八丁目口や真田丸へいっせいに押し寄せたのです。

真田丸の戦いのさなか、大坂城の惣構で上がる爆発の煙と、それを見て一斉に駆け出す徳川方の軍勢(イラスト)
城内の爆発を内通の合図と思いこみ、徳川方の軍勢がいっせいに押し寄せた(イメージ)

待ち受ける豊臣方は、塀の内側から鉄砲と矢を浴びせかけました。空堀の中は徳川方の兵であふれ、引くに引けない大混乱に陥ります。信繁は頃合いを見て、子の大助らに打って出るよう命じ、混乱する徳川方にさらに痛手を与えたと伝わります。

真田丸の戦いの決着 ─ 午後まで続いた退却と、家康の叱責

先を争って攻めかかった徳川方の各隊は、ほかの隊に後れを取ったと思われたくないばかりに、なかなか退こうとしませんでした。大名どうしの手柄争いが、かえって被害を大きくしたのです。家康や秀忠から退くよう命令が出ても、退却は思うように進まず、徳川方が堀ぎわから引きあげたのは午後になってからだったといわれます。

徳川方の損害について、朝廷に仕えた小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』は、前田勢の戦死者三百騎、松平勢の戦死者四百八十騎と記しています。「騎」は馬に乗る身分の武士の数で、雑兵の戦死者はこれよりはるかに多かったとみられます。井伊勢も数百人の死者を出したと伝わります。

家康は、命令のないまま攻めかかった大名たちを強く叱りました。井伊家に伝わる『井伊直孝御夜話』には、家康が若い大将たちの勇ましさは認めながらも、備えのないまま攻めかかったことをいさめた、という話が残っています。真田丸の戦いのこの一日で、真田信繁の名は敵味方を問わず天下に知れわたりました。

真田丸の戦いのあと ─ 力攻めから大砲と和議へ

真田丸の戦いで手痛い損害を出した家康は、大坂城を力攻めで落とすのは難しいと判断し、戦い方を変えます。イギリスやオランダから買い入れた大砲で、城を昼夜休みなく砲撃させたのです。その砲弾が本丸の淀殿の御殿にも届き、侍女が命を落としたことで、淀殿は和議に傾いていきました(家康は大坂の陣の前に鉄砲や大砲を買い集めたのか)。

この間、家康は信繁を徳川方に引き抜こうとしたとも伝わります。信繁の叔父で徳川家に仕えていた真田信尹を使いに出し、はじめは十万石、次には信濃一国を与えると誘ったものの、信繁は首を縦に振らなかったという話です。

12月下旬に結ばれた和議の条件で、大坂城の堀は埋められ、真田丸も取り壊されました。守りの要を失った大坂城は、翌年の夏の陣で落城し、信繁も天王寺口の戦いで討死します(大坂城の堀はどこまで埋められたのか)。

ドラマ『真田十勇士』と真田丸の戦い

第3話では、大坂城に入った幸村が、大野治長(和田正人さん)に迎えられ、軍議で城を出て戦う策を退けられたうえで、出城の築造を提案しました(大野治長はなぜ籠城を選んだのか)。史実どおりに進むなら、この先には真田丸の築城と、12月4日の真田丸の戦いが待っています。篠山での駆け引き、空堀への誘いこみ、城内の爆発といった史実の場面を、十勇士がどう彩るのかが楽しみです。猿飛佐助(岩本照さん)や霧隠才蔵(中川大志さん)ら忍びたちが、敵陣を探ったり、内通の噂を流したりする場面もあるかもしれません(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 真田丸の戦いはいつ起きたのですか?
A. 慶長19年(1614)12月4日です。大坂冬の陣のなかで、最も激しい戦いでした。

Q. 真田丸を攻めたのは誰ですか?
A. 真田丸の正面に陣取った前田利常の軍勢が中心で、井伊直孝や松平忠直の軍勢も、すぐ西の八丁目口・谷町口とあわせて攻めかかりました。

Q. なぜ徳川方は大きな損害を出したのですか?
A. 篠山で空振りに終わった前田勢が、怒りにまかせて真田丸の空堀に攻めこみ、柵の内側から一斉に鉄砲を浴びたからです。城内の爆発を内通の合図と思いこんだ井伊・松平勢も押し寄せ、手柄争いで退却も遅れたため、被害が広がりました。

Q. 徳川方の死者はどれくらいでしたか?
A. 『孝亮宿祢日次記』には、前田勢三百騎、松平勢四百八十騎が討ち死にしたと記されています。騎馬の武士の数なので、雑兵を含めた死者はさらに多かったとみられます。

まとめ

慶長19年(1614)12月4日の真田丸の戦いは、篠山からの鉄砲で前田勢を挑発し、空振りの夜襲であざけって真田丸へ誘いこみ、空堀に飛びこんだところへ一斉に鉄砲を浴びせる、という信繁の駆け引きで幕を開けました。城内の爆発を内通の合図と思いこんだ徳川方の大名たちが手柄を争って押し寄せたことで、被害はさらに広がります。この一日の勝利で、九度山の一浪人と見られていた信繁は、「日本一の兵」と呼ばれる名将への道を歩みはじめたのです。

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運営者・佐藤秀信
このサイトの運営者 佐藤秀信
子どものころ、父と一緒に見た大河ドラマ『独眼竜政宗』『武田信玄』で歴史が好きになり、年末の時代劇スペシャル『白虎隊』『五稜郭』で幕末にのめり込みました。2016年から『日本の歴史ガイド』を運営し、全国の名城や城跡、史跡、銅像を訪ね歩いては、現地の解説板と史料を読み比べて記事を書いています。
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