長久手古戦場(ながくてこせんじょう)は、天正12年(1584)4月9日、羽柴秀吉と徳川家康がただ一度だけ正面からぶつかった長久手の戦いの主戦場です。いまは愛知県長久手市の「古戦場公園」として整備され、この地で討たれた池田恒興(勝入)と長男の元助(庄九郎)の塚が、住宅地のなかに静かに残っています。昭和14年(1939)に国の史跡に指定されました。
文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
- 長久手古戦場は、池田恒興・元助父子が討死した「仏ヶ根(ほとけがね)」の戦場跡
- 公園には恒興の勝入塚、道を隔てて元助の庄九郎塚がある
- どちらの塚にも、明和8年(1771)に尾張藩士が建てた石柱と、明治24年(1891)に池田家の子孫が建てた碑が並ぶ
- 令和8年春、公園内に長久手古戦場記念館が開館した

勝入塚。中央の大きな碑が明治24年に恒興の子孫が建てた「明治の碑」で、左手前の細い石柱が明和8年の「明和の碑」です。
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秀吉と家康がただ一度ぶつかった場所
本能寺の変のあと、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田家の家臣のなかで抜きん出た立場に立ちましたが、それをいちばん警戒したのが信長の次男・織田信雄でした。信雄は父の同盟者だった家康に助けを求め、天正12年3月、両軍は尾張で兵を挙げます。秀吉は犬山の楽田に、家康は小牧山に陣を構えてにらみ合いましたが、先に動いたのは秀吉方で、三好信吉(のちの豊臣秀次)を総大将にした別働隊を、家康の本拠・岡崎へ向かわせました。
この動きを察した家康は小牧山をひそかに出て別働隊を追い、まず白山林で秀次の隊を崩し、続いてこの長久手で池田恒興・森長可の隊と激しく戦いました。結果は家康方の大勝で、恒興・元助父子と長可が討たれています。戦い全体の流れは小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?にまとめています。

公園の入口近くにある総合案内板。右上は「長久手合戦図屏風」、右下が周辺の史跡地図です。
天正10年(1582)6月の本能寺の変のあと、跡継ぎ争いのなかで最初に動いたのは羽柴秀吉で、明智光秀と柴田勝家を倒して天下統一への階段を上っていきました。日に日に強くなる秀吉に身の危険を感じた信長の次男・信雄は家康に助けを求め、家康もいずれ秀吉と決着をつけなければならないと考えてこれを承諾します。天正12年(1584)3月に両軍は兵を挙げ、小牧でにらみ合ったのち、秀吉方が三好信吉を総大将とする別働隊を岡崎へ送ったのを家康が追い、4月9日、この長久手の地で激しい戦いが起こりました。戦いは家康軍の勝利で終わりましたが、のちに秀吉は信雄と和睦し、信長の後継者としての地位を固めます。合戦後、長久手では戦死者を手厚く葬り、武将の塚を築くなど、この戦いが語り継がれてきました。昭和14年(1939)に主戦場跡地が国の史跡に指定され、いまは「古戦場公園」として整備されています。(長久手市教育委員会の案内板より要約)
勝入塚 ― 池田恒興の戦死地
公園の中ほどにあるのが、池田恒興の戦死地と伝わる勝入塚(しょうにゅうづか)です。恒興は信長の乳兄弟として育った古参の重臣で、当時は美濃の大垣城主でした。案内板によると、恒興は小牧山と楽田で両軍が向き合うなか、家康の本拠・岡崎を攻めるよう秀吉に進言し、自ら兵を率いて向かいましたが、途中で岩崎城(日進市)を攻めるのに手間取り、家康軍の先遣隊に追いつく時間を与えてしまいます。結局この地で家康の本隊と出会い、仏ヶ根の戦いで討死しました。
恒興は天正8年(1580)に入道して勝入斎と名乗っており、塚の名はこの法名にちなんでいます。岩崎城で何が起きたのかは岩崎城の記事に、「中入り」がなぜ失敗したのかは池田恒興の「中入り」はなぜ失敗したのかにくわしく書きました。

勝入塚の案内板。日本語と英語の両方で書かれています。
塚の大きな碑は「明治の碑(刻銘:勝入池田公戦死處)」で、明治24年(1891)に恒興の子孫が建てたもの、その左横の細い石柱は「明和の碑(刻銘:池田勝入信輝戦死場)」で、明和8年(1771)に尾張藩士の人見弥右衛門と赤林孫七郎が古戦場を訪れた際に建てたものです。戦いからおよそ190年後に尾張の藩士が、さらに120年後に池田家の子孫が、それぞれ碑を建てたことになり、この場所が長いあいだ忘れられずにいたことがよくわかります。

勝入塚の明治の碑を正面から。周りを囲む石柵にも、寄進した人の名が刻まれています。
庄九郎塚 ― 父のそばで討たれた元助
勝入塚から道を渡った先、住宅のあいだにあるのが庄九郎塚(しょうくろうづか)で、恒興の長男・池田元助(1564〜84)の戦死地と伝わります。元助は岐阜城主で、父に従ってこの戦いに加わり、父や義理の兄弟にあたる森長可とともに家康の本拠を突こうとしましたが果たせず、仏ヶ根の戦いで討死しました。わずか21歳でした。
案内板によると、残された一子・元信は秀吉の馬廻に取り立てられ、のちに秀頼に仕えましたが、大坂城落城の前には池田輝政(元助の弟)の家来になっています。塚の名は元助の幼名「庄九郎」にちなむもので、勝入塚と同じく明治24年に子孫が建てた「明治の碑(刻銘:紀伊守池田公戦死處)」と、明和8年に人見弥右衛門と赤林孫七郎が建てた「明和の碑(刻銘:池田紀伊守之助戦死場)」が並んでいます。


二つの塚を歩いて感じたこと
勝入塚と庄九郎塚のあいだは歩いて数分で、父と子がほとんど同じ場所で倒れたことが、実際に歩くとよくわかります。周りはいまでこそ平らな住宅地ですが、当時は小さな丘と谷が入り組んだ土地で、家康の本隊は丘の上から池田勢を見おろす形で戦いを始めたとされます。案内板の地図と見比べながら歩くと、少し離れたところにある森長可の武蔵塚や、家康が陣を置いた色金山・御旗山との位置関係もつかみやすくなります。
この戦いで家康は勝ちましたが、戦争そのものは半年以上続き、最後は秀吉が信雄と単独で和睦したことで家康は戦う理由を失いました。長久手の勝利が戦局を決めたわけではないという話は、蟹江城跡の記事や第34〜35回の史実解説に書いています。

園内地図(左)と史跡案内図(右)。市内に散らばる史跡の場所がまとめられています。
長久手古戦場記念館
公園の中には令和8年(2026)4月、長久手古戦場記念館が新しく開館しました。三面に映像を映すシアターや、徳川美術館が所蔵する「長久手合戦図屏風」の復元模写などで、戦いの流れを見てから塚を歩くと、案内板の内容がぐっと立体的になります。


長久手古戦場の場所
【場所】愛知県長久手市武蔵塚204(古戦場公園)。リニモ「長久手古戦場」駅のすぐ近くです。
【実録】朝5時出発、小牧・長久手の戦いの史跡を車で日帰り ― 長久手古戦場から秀吉の本陣・楽田城まで11か所
回った順番や駐車場・トイレ、御城印・御朱印の情報はこちらの「1. 長久手古戦場と記念館」にまとめています。
