葛西大崎一揆とは|奥州仕置のあと東北最大の一揆 ─ 木村吉清の失政、伊達政宗の黒幕疑惑、米沢から岩出山への移封

岩出山城/アクセス・場所・地図 伊達政宗が仙台城へ居城を移すまで本城とした岩出山城
この記事のポイント
  • 葛西大崎一揆は、天正18年(1590)10月、奥州仕置で取りつぶされた葛西氏・大崎氏の旧領で、旧臣や百姓たちが新しい領主・木村吉清に背いた一揆です
  • 木村吉清・清久の父子は佐沼城に閉じこめられ、秀吉は蒲生氏郷と伊達政宗に鎮圧を命じます
  • ところが、一揆の裏で政宗が糸を引いているという疑いが持ち上がりました。政宗は上洛して秀吉に弁明し、みずから一揆を鎮めることで疑いを晴らそうとします
  • 一揆が鎮まったあと、木村吉清は領地を取り上げられ、政宗は旧葛西・大崎領に移されました。伊達家の本拠は米沢から岩出山へ、のちに仙台へと移っていきます

天正18年(1590)、小田原の北条氏を滅ぼした秀吉は、そのまま奥州へ向かい、東北の大名たちの領地を決め直しました。奥州仕置です。ところが、仕置が終わって秀吉の軍が引き上げたとたん、東北の各地で一揆が火を噴きます。なかでも最も大きかったのが、葛西大崎一揆でした。この記事では、一揆の原因から、伊達政宗の「黒幕疑惑」、そして伊達家の移封までをたどります(奥州仕置とは)。

葛西氏の本拠だった石巻の日和山(石巻城跡)
葛西氏の本拠だった石巻の日和山(石巻城跡)
目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

取りつぶされた葛西氏と大崎氏

葛西氏と大崎氏は、陸奥の北上川流域を長く治めてきた名門でした。ところが、小田原攻めのときに秀吉のもとへ参陣しなかったため、奥州仕置で領地を取り上げられます。

あとに入ったのが、秀吉の家臣・木村吉清でした。吉清はもと明智光秀の家臣で、それまで数千石ほどの身でしたが、いきなり30万石ほどの大領を任されます。しかし、家臣も足りず、土地の事情もわからない新しい領主のもとで、検地や年貢の取り立てが強引に進められました。旧臣たちの不満と百姓たちの怒りが、一気に爆発したのです。

大崎氏の家臣の城だった高清水城の跡(高清水城)
大崎氏の家臣の城だった高清水城の跡(高清水城)

佐沼城に閉じこめられた木村父子

天正18年10月、一揆は旧葛西・大崎領の全域に広がりました。木村吉清と子の清久は佐沼城に逃げこみ、一揆勢に囲まれてしまいます。

知らせを受けた秀吉は、会津の蒲生氏郷と、隣の伊達政宗に鎮圧を命じました。ふたりは軍を出して佐沼城に向かい、木村父子を救い出します。ところが、その最中に、思いもよらない疑いが持ち上がりました。

政宗が黒幕だった? ─ 書状と鶺鴒の花押

鎮圧に向かう途中、蒲生氏郷のもとに、政宗の家臣だった者が駆けこんできました。その者は、政宗こそが一揆をあおっている、と告げ、その証拠として、政宗が一揆勢にあてた書状を差し出したといいます。

氏郷は政宗を疑い、名生城に籠もって、政宗の動きを警戒しました。秀吉のもとにもこの話が伝えられ、政宗は京へ呼び出されます。天正19年(1591)、上洛した政宗は、書状は偽物だと弁明しました。このとき政宗は、自分の本物の花押には鶺鴒の目に針で穴をあけてあるが、この書状の花押にはそれがない、と申し立てたという話が伝わっています(伊達政宗はなぜ小田原に遅れたのか)。

▽ よく語られる話
政宗は鶺鴒の花押の機転で、秀吉をまんまとだまして許された。
▼ 史実ではこうです
鶺鴒の花押の話はよく知られていますが、のちの時代の軍記にもとづく逸話で、確かな史料では確かめられません。政宗が許されたのは、みずから一揆の鎮圧にあたることを命じられ、それを果たしたからでした。そして政宗は、その代わりに先祖代々の土地を失うことになります。

政宗による鎮圧と、須江山の悲劇

天正19年の夏、政宗は秀吉の再仕置の軍とともに、みずから一揆の鎮圧に乗り出しました。宮崎城、佐沼城と、一揆勢の拠る城が次々と落とされます。佐沼城では、城内の者が数多く討ち取られたと伝えられています。

さらに、一揆のあと、葛西・大崎の旧臣たちが須江山に集められて討たれたという話も残っています。政宗が一揆との関わりを消すために口を封じたのだ、ともいわれますが、くわしいことはわかっていません。

伊達家は米沢から岩出山へ

一揆が鎮まると、木村吉清は失政の責任を問われ、領地を取り上げられました。そして政宗は、米沢をふくむ先祖代々の領地を取り上げられ、その代わりに一揆で荒れた旧葛西・大崎領を与えられます。政宗は大崎氏の家臣・氏家氏の岩手沢城を改修して岩出山城とし、ここを本拠としました(岩出山城、米沢城)。

政宗が本拠とした岩出山城の跡
政宗が本拠とした岩出山城の跡
伊達家が手放すことになった先祖の地・米沢の米沢城跡
伊達家が手放すことになった先祖の地・米沢の米沢城跡
時期 できごと
天正18年(1590)7〜8月 奥州仕置。葛西氏・大崎氏が取りつぶされ、木村吉清が入る
天正18年10月 葛西大崎一揆が起こる。木村父子が佐沼城に閉じこめられる
天正18年11月 蒲生氏郷と伊達政宗が出陣。氏郷が政宗を疑い名生城に籠もる
天正19年(1591) 政宗が上洛して弁明
天正19年夏 政宗が一揆を鎮圧。宮崎城・佐沼城が落ちる
天正19年 木村吉清が改易。政宗は旧葛西・大崎領に移り、岩出山城を本拠に
慶長6年(1601)以降 政宗が仙台城を築き、本拠を移す

岩出山の城下は、伊達家にとって仮の住まいでした。関ヶ原の戦いのあと、政宗は仙台に新しい城を築いて本拠を移します。仙台藩62万石の出発点は、葛西大崎一揆のあとに与えられたこの土地だったのです。

✎ 筆者の考え
葛西大崎一揆の勝者がだれだったのかを考えると、答えはむずかしくなります。一揆勢は鎮められ、木村吉清は失脚し、政宗は先祖の地を失いました。得をしたのは、奥州に豊臣の目を行き届かせた秀吉だけだったのかもしれません。それでも政宗は、与えられた荒れ地を、のちの仙台藩へと育てあげていきました。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』の最終回(第47回、12月6日放送予定)では、小田原攻めから秀長の最期までが描かれるようです。葛西大崎一揆はその直後、天下統一が仕上がったはずの奥州で起きた大きな揺りもどしでした。

よくある質問

Q. 葛西大崎一揆はいつ起きましたか?
A. 天正18年(1590)10月に起き、天正19年に鎮められました。

Q. 一揆の原因は何ですか?
A. 奥州仕置で取りつぶされた葛西氏・大崎氏の旧領に入った木村吉清の、強引な支配への反発です。

Q. 伊達政宗は一揆に関わっていたのですか?
A. 一揆をあおったという疑いがかけられましたが、くわしい真相はわかっていません。

Q. 一揆のあと伊達家はどうなりましたか?
A. 米沢などの旧領を失い、旧葛西・大崎領に移されて岩出山城を本拠としました。

まとめ

葛西大崎一揆は、奥州仕置で取りつぶされた葛西氏・大崎氏の旧領で起きた、東北最大の一揆でした。木村吉清の強引な支配に旧臣と百姓が立ち上がり、伊達政宗には黒幕の疑いがかけられます。政宗はみずから一揆を鎮めて疑いを晴らしましたが、先祖代々の土地を失い、岩出山へ移りました。一揆は、のちの仙台藩の出発点にもなったのです。

参考:小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』吉川弘文館/『伊達治家記録』/大崎市「岩出山城跡」案内

  • URLをコピーしました!
目次