徳川家康は75歳まで生きました。織田信長は49歳、豊臣秀吉は62歳、秀吉の弟の秀長は52歳です。家康が天下を取れた理由をひとつだけ挙げるなら、戦の強さでも策の深さでもなく、この年数になります。しかも家康の長命は偶然ではありません。麦飯と豆味噌の質素な食事、生涯続けた鷹狩り、そして自分で薬を作るほどの医学の知識。家康は養生を趣味ではなく、天下を取るための手段として続けた人でした。
※この記事の絵は、いずれも当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 家康は天文11年生まれ、元和2年4月17日に没しました。75歳です
- 同じ時代の天下人は、信長が49歳、秀吉が62歳、秀長が52歳。家康は秀吉より13年長く生きました
- 食事は麦飯と豆味噌が中心で、白米や珍味を避けました。旬のものを好み、季節外れの食べ物を嫌ったと伝わります
- 鷹狩りを生涯の習いとし、70歳を過ぎても野へ出ていました。運動と気分転換を兼ねた養生です
- 医学書を読み、薬研で生薬を挽いて自分で薬を調えました。家臣や大名にも自製の薬を配っています
- 長命そのものが戦略でした。秀吉の死を待ち、57歳で関ヶ原、72歳で大坂冬の陣を迎えます
- 死因は鯛の天ぷらだという話が有名ですが、天ぷらを食べたのは死の3か月以上前で、直接の死因ではないとみられています

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何歳まで生きたのか ─ 同時代の天下人と並べる
家康は天文11年に三河の岡崎で生まれ、元和2年4月17日に駿府で亡くなりました。75歳です。同じ時代を生きた人たちと並べると、差がはっきりします。織田信長は本能寺で49歳、豊臣秀吉は慶長3年に62歳、豊臣秀長は天正19年の正月に52歳、千利休はその翌月に切腹して70歳でした。
長命な武将は家康だけではありません。毛利元就も75歳まで生き、島津義久は79歳まで生きています。家康が特別なのは、長生きしたことが、そのまま天下に直結した点です。秀吉が死んだとき家康は56歳。秀吉の跡を継いだ秀頼はまだ6歳でした。待っていれば力の差が開く。実際そうなりました(徳川家康は秀吉・秀長と何歳ちがうのか)。
食事 ─ 麦飯と豆味噌、季節外れを嫌う
家康の食事は、天下人としては驚くほど質素でした。主食は白米ではなく麦飯で、副食は三河の豆味噌が中心。贅沢な珍味を避け、旬のものを好み、季節外れの食べ物を嫌ったと伝わります。
これは倹約の話だけではありません。当時の白米中心の食事はビタミンが不足しやすく、江戸時代には将軍や大名が脚気で命を落とす例が続きました。麦飯はそれを避ける食べ方です。家康が理屈まで分かっていたかはわかりませんが、結果として理に合った食べ方を続けたことになります。
第40回で浜松に嫁いだあさひが「ただの里芋がいちばん」と言い、家康が「浜松にはうまいものがたくさんある」と応じる場面がありました。44歳どうしの政略結婚の始まりが、質素な食べ物の話で合うのは、この二人らしいところです(豊臣兄弟!第40回「あさひの輿入れ」史実解説)。
鷹狩り ─ 70歳を過ぎても野へ出た
家康は鷹狩りを生涯の習いにしました。若いころから好み、大御所となって駿府に移ってからも、70歳を過ぎて野へ出ています。鷹狩りは馬に乗り、野を歩き、半日を外で過ごす行いです。運動と気分転換を同時にやっていたことになります。
そして鷹狩りには別の効き目もありました。領内を歩けば、土地の様子も民の暮らしも目に入る。家臣と馬を並べれば、城では話せないことも聞ける。家康にとっては養生と視察と相談の場を兼ねた時間でした。
いっぽう秀吉は、茶の湯と能に凝りました。黄金の茶室を作り、北野で大規模な茶会を開き、晩年には自分で能を舞っています。室内で、座ってやる趣味です。野に出る家康と、座敷に籠る秀吉。趣味の違いが、そのまま体の差になった可能性はあります。
薬 ─ 自分で調えた天下人
家康は医学書を読み、薬研で生薬を挽いて、自分の手で薬を調えました。処方を書き写し、自製の丸薬には名前まで付けて、家臣や大名に配ってもいます。趣味の域を超えた熱心さで、天下人が自分の薬を自分で作るというのは異例です。
くわしくは徳川家康は薬を自分で作っていたのかにまとめました。医学の知識がどこまであったのか、何を作っていたのかは、そちらで扱っています。
そして第41回「家康の野望」では、秀長に「楽しいと思うことは何か」と問われた家康が、小さな声で「薬草集めだ」と答える場面がありました。天下を狙う男の趣味が薬草だというのは、ドラマの創作ではなく史実に沿った描写です。

長生きが戦略だった
家康の養生が効いたのは、体のことだけではありません。待てるという一点が、そのまま戦略になりました。
数字で並べるとよくわかります。家康が秀吉に臣従したのは44歳のとき。秀吉が死んだのが家康56歳のとき。関ヶ原が57歳。征夷大将軍になったのが61歳。大坂冬の陣が72歳、夏の陣が73歳で、その翌年に没します。臣従してから天下を取るまで、31年待っています。
この年数を待てたのは、長生きしたからです。もし家康が秀吉と同じ62歳で死んでいたら、慶長8年に亡くなっていた計算になります。関ヶ原には勝てても、豊臣家を滅ぼす前に世を去っていた。逆に秀吉が家康と同じ75歳まで生きていたら、慶長16年まで生きていたことになり、秀頼は19歳で成人している。天下の行き先はまるで変わっていたはずです。
家康が臣従を決めた要因を領地・財力・情勢・天運・秀吉の誠意の5つに分けて考えた記事が家康はなぜ最後に秀吉への臣従を決断したのかです。そこに「天運」を立てたのですが、天運の中身の半分は、この寿命でした。
死因は鯛の天ぷらだったのか
家康の死因として有名なのが、鯛の天ぷらを食べて体調を崩したという話です。ただ、これには無理があります。天ぷらを食べたとされるのは元和2年の正月で、亡くなったのは同年4月17日。3か月以上あいています。食あたりで3か月かかることはありません。
いまは胃がんだったとする見方が有力です。腹にしこりがあったことや、長く食が細っていたことが記録から読み取れるためです。天ぷらの話は、発端として語りやすいので後世に広まったのでしょう。
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- 鯛の天ぷら説……正月に食べた鯛の天ぷらで腹を壊し、そのまま回復しなかったという話。わかりやすく、広く語られています
- 胃がん説……腹にしこりがあり、食が細り続けたという記録から、胃の病だったとする見方。天ぷらから死までの3か月の空白も説明できます
よくある疑問
Q. 家康は何歳まで生きましたか。
A. 75歳です。天文11年に生まれ、元和2年4月17日に亡くなりました。
Q. 秀吉や信長とくらべてどれくらい長いのですか。
A. 信長が49歳、秀吉が62歳、秀長が52歳です。家康は秀吉より13年長く生きました。
Q. 何を食べていたのですか。
A. 麦飯と豆味噌が中心で、白米や珍味を避け、旬のものを好みました。季節外れの食べ物を嫌ったと伝わります。
Q. 本当に自分で薬を作っていたのですか。
A. はい。医学書を読み、薬研で生薬を挽いて調えました。くわしくは徳川家康は薬を自分で作っていたのかをご覧ください。
まとめ
家康の強さは、勝つ力ではなく残る力でした。麦飯と豆味噌で食を抑え、鷹狩りで体を動かし、自分で薬を調えて、酒も控えた。それを何十年も続けた結果が75年という年数で、その年数が天下になりました。信長は49歳で討たれ、秀吉は62歳で死に、秀長は52歳で病に倒れました。才でも運でもなく、残った人が勝ったのです。
そして第41回で、家康は数正に「長生きして最後に笑う」と言い、その直後に「長生きするため」と言って3口で酒をやめています。笑える場面ですが、やっていることは史実の家康そのものです。家康の我慢強さがどこから来たのかは家康の我慢強さはどこから来たのか、いらだつ家康の一面は家康の爪を噛む癖は本当かにまとめています。

