- 大野治長は、淀殿の乳母・大蔵卿局の子で、淀殿とは乳兄弟にあたる豊臣家の重臣です。片桐且元が大坂城を去ったあと、豊臣家の方針を実際に動かす立場になりました
- 若いころは秀吉の馬廻として仕え、信繁とは同じ秀吉の側近仲間でした。秀吉の死後には家康暗殺を企てた疑いで下総の結城に流されましたが、関ヶ原では徳川方について赦されています
- 大坂の陣では、浪人衆の出撃策を退けて籠城策をとったことから、「豊臣家を滅ぼした凡将」と語られがちです。ただ、家老のいない豊臣家で淀殿と浪人衆のあいだに立ち、和議の交渉にもあたった苦しい立場だったことも見えてきます
- 大坂城が落ちる日、治長は千姫を城の外へ出して秀頼と淀殿の助命を願いましたが、聞き入れられず、秀頼・淀殿とともに自害しました
- ドラマ『真田十勇士』では、和田正人さんが大野治長を演じます。九度山を出た幸村が大坂城でまず向き合うことになる、豊臣家の実務の中心人物です
10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、豊臣の使いを名のる男が九度山を訪れ、幸村(安藤政信さん)に大坂へ来てほしいと頼みました。その使いは徳川の罠でしたが、史実の大坂城で浪人たちを呼び集め、豊臣家の戦いを仕切っていたのが、和田正人さんが演じる大野治長です。九度山を出た幸村が大坂城で向き合うことになる治長とは、どんな人物だったのでしょうか。この記事では、治長の生い立ちから、大坂の陣での役割、最期までをたどります。
この記事は治長が大坂の陣でどんな立場に置かれ、なぜ籠城を選んだのかを中心に見ていきます。治長の人物像を一通り知りたい方は、姉妹サイト「日本の戦国武将図鑑」の大野治長もあわせてどうぞ。
大野治長とは ─ 淀殿の乳兄弟
大野治長の母は、淀殿(茶々)の乳母を務めた大蔵卿局です。乳母の子は、育てられた主人と同じ乳で育った「乳兄弟」として、主人にとって家族に近い存在になります。治長も幼いころから茶々の身近にいた一人と考えられ、のちに淀殿がもっとも信頼する家臣になりました。弟には大野治房、治胤(道犬)らがいて、兄弟そろって大坂の陣で豊臣方として戦っています。
治長は豊臣秀吉の馬廻として仕え、文禄3年(1594)には一万石の大名となり、侍従の官位も受けています。秀吉の馬廻には真田信繁もいて、二人は同じ秀吉の側近仲間でした(真田十勇士は誰に仕えたのか)。生まれた年ははっきりしませんが、信繁と近い年ごろだったと考えられています。
| 年 | 治長の歩み |
|---|---|
| 文禄3年(1594) | 秀吉の馬廻として一万石の大名に。侍従に任じられる |
| 慶長4年(1599) | 家康暗殺を企てた疑いをかけられ、下総の結城に流される |
| 慶長5年(1600) | 関ヶ原の戦いで徳川方として戦い、赦される。のち大坂に戻り豊臣家に仕える |
| 慶長19年(1614) | 片桐且元が大坂城を去り、豊臣家の中心に。浪人を集め、冬の陣で籠城策をとる |
| 慶長20年(1615) | 夏の陣。5月8日、大坂城の山里曲輪で秀頼・淀殿とともに自害 |
家康暗殺の疑いと関ヶ原
秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)、大坂城で家康を暗殺しようとする計画があったとして、前田利長や浅野長政らとともに治長の名が挙がりました。治長は罪を問われ、家康の次男・結城秀康の領地である下総の結城に預けられます。この暗殺計画については、本当にあったのか、家康が前田家などを抑えるために作り上げた話なのか、今も見方が分かれています。
翌年の関ヶ原の戦いでは、治長は徳川方として戦い、その働きで罪を許されました。このころの治長は、豊臣家の家臣でありながら、天下の実権を握りつつあった家康とも折り合いをつけて生きていたのです。その後、治長は大坂に戻り、秀頼と淀殿のもとで仕えるようになります。
片桐且元のあとを継いで ─ 豊臣家の中心へ
関ヶ原のあと、豊臣家の家老として徳川との交渉を担っていたのは片桐且元でした。ところが慶長19年(1614)、方広寺の鐘銘をめぐる交渉で、且元は徳川に通じていると疑われ、大坂城を去ります(方広寺鐘銘事件とは)。この且元を追い出す側にいたのが、治長ら淀殿に近い人びとでした。

且元が去ったあと、豊臣家の方針を実際に動かす立場になったのが治長です。秀頼はまだ二十代前半で、豊臣家には家康と渡り合えるだけの年長の家老がいませんでした。治長は淀殿の信頼を背に、全国の浪人を大坂城へ呼び集め、戦の準備を進めていきます(淀殿はなぜ豊臣家を仕切れたのか)。九度山の信繁に届いた誘いも、こうした流れの中で出されたものでした(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。
冬の陣の籠城策と、浪人衆との対立
大坂城の軍議では、信繁や後藤又兵衛ら浪人の大将たちが、城を出て京都や近江まで兵を進める策を唱えたと伝わります。これに対して治長らは、難攻不落の大坂城に籠もって戦う策をとりました。浪人衆の意見を退けたこの判断が、のちに「治長が豊臣家を誤らせた」と語られる理由の一つになっています(大坂五人衆とは)。
ただ、治長の立場から見れば、浪人たちは戦のために雇った人びとで、豊臣家の家臣ではありません。信用しきれない浪人に兵を預けて城の外へ出すより、秀吉が築いた大坂城に籠もるほうが確かだと考えたとしても不思議ではありません。実際、冬の陣では信繁の真田丸の活躍もあって、大坂城は徳川の大軍を寄せつけませんでした(真田丸とは)。
冬の陣の和議と、夏の陣の前の襲撃
冬の陣は、慶長19年12月に和議が結ばれて終わりました。治長はこの和議の交渉にもあたり、豊臣方からは治長と織田有楽斎の子が人質として出されています。ところが、和議の条件だった大坂城の堀の埋め立ては、外堀だけでなく内堀にまで及び、大坂城は守りの力を失ってしまいました。
翌慶長20年(1615)の春、豊臣家の中では徳川との和平を保とうとする人びとと、もう一度戦おうとする人びとの対立が深まります。4月には治長が大坂城の中で何者かに襲われ、傷を負う事件も起きました。弟の治胤ら、戦を望む側の者の仕業ともいわれます。治長は豊臣家の中でも、和戦の板ばさみになっていたのです。
大坂城落城と治長の最期
慶長20年5月7日、夏の陣の天王寺口の戦いで信繁らが討死し、大坂城は火に包まれました。その夜、治長は秀頼の正室で家康の孫にあたる千姫を城の外へ出し、千姫を通じて秀頼と淀殿の命を助けてほしいと徳川方に願い出たと伝わります(千姫はどうやって大坂城から逃げたのか)。
けれども、その願いが聞き入れられることはありませんでした。翌5月8日、秀頼と淀殿は大坂城の山里曲輪に籠もり、治長もそのそばで最期を迎えます。治長は秀頼・淀殿とともに自害し、豊臣家はここに滅びました(家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのか)。淀殿の乳兄弟として生き、最後まで淀殿のそばを離れなかった最期でした。
秀頼の父親をめぐるうわさについては秀頼は本当に秀吉の子だったのかでくわしく書いています。
ドラマ『真田十勇士』の大野治長
ドラマでは、和田正人さんが大野治長を演じ、淀殿を栗山千明さん、治長の母・大蔵卿局を阿知波悟美さん、織田有楽斎を西岡徳馬さんが演じます(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。九度山を出た幸村と十勇士が大坂城に入れば、豊臣家の実務を握る治長と向き合うことになるはずです。
史実の治長と信繁は、若いころ同じ秀吉の馬廻として仕えた仲間でした。それから十数年、一方は豊臣家の重臣として大坂城を仕切り、一方は九度山の流人から浪人の大将として大坂城に戻ってきます。かつての仲間が、豊臣家の最後の戦いでどう向き合うのか ─ ドラマでの二人の関係にも注目です。
よくある疑問
Q. 大野治長と淀殿はどんな関係ですか?
A. 治長の母・大蔵卿局が淀殿の乳母だったので、二人は乳兄弟にあたります。淀殿がもっとも信頼した家臣の一人でした。
Q. 大野治長は関ヶ原でどちらについたのですか?
A. 徳川方(東軍)です。前の年に家康暗殺の疑いで流されていましたが、関ヶ原での働きで罪を許されました。
Q. 大野治長はどのように亡くなりましたか?
A. 慶長20年(1615)5月8日、大坂城の山里曲輪で、秀頼・淀殿とともに自害しました。前の夜には千姫を城の外へ出し、秀頼と淀殿の助命を願っています。
Q. ドラマで大野治長を演じるのは誰ですか?
A. 和田正人さんです。
まとめ
大野治長は、淀殿の乳兄弟として豊臣家の奥深くで生き、片桐且元が去ったあとは豊臣家の方針を担う立場になった人物でした。浪人衆の出撃策を退けた籠城策や、和議のあとの混乱から、凡将として語られることも多い人物ですが、家老のいない豊臣家で淀殿と浪人衆、和平派と主戦派のあいだに立たされた苦しい立場も見えてきます。最後は千姫に秀頼と淀殿の助命を託し、二人とともに大坂城で命を絶ちました。
よくある疑問
Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。
Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。
Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。
Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。
Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。
まとめ
真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。
- 豊臣秀長とはどんな人物か
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