吉川平介(平助)が熊野の材木代に手を出した理由は、待遇への不満ではありません。所領は7千石で、大名格とされる1万石に迫る、秀長家中でも上位の扱いでした。それでも手が出たのは、彼が預かったのが材木2万余本を大坂でさばいた代金という桁違いの金であり、しかもできたばかりの秀長の領国には、その金を数える仕組みがまだなかったからです。動機は不満の側ではなく、機会の側にありました。
※この記事の絵は、いずれも当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 平介の所領は7千石と伝わります。これは低い待遇ではありません。同じ秀長家中の藤堂高虎は天正11年に4,600石、天正13年にようやく1万石に達して大名格とされた人です
- いっぽう平介が握っていたのは、熊野の材木2万余本という国家規模の資源です。扱う金額と身分が釣り合っていませんでした
- 平介はもと商人で、船と材木と銭の扱いに長けた実務家でした。「売れる」ことそのものが彼の値打ちでした
- 秀長が紀伊を得てまだ3年。新領国には代金を突き合わせる仕組みが整っておらず、材木の本数と銭を知る者は平介ひとりでした
- 天正16年、熊野の材木を大坂で売った代金を着服したことが露見し、同年12月5日に大和西大寺で処刑されました
- 妻子は罪に問われていません。これは一件が謀反ではなく個人の不正として裁かれた証拠と読めます
- 責めは主君の秀長にも及び、秀長は翌年の年頭の挨拶を秀吉から断られました

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7千石は低い待遇だったのか ─ 答えは「低くない」
吉川平介(平助)の所領は7千石と伝わります。これは低い待遇ではありません。当時は1万石を超えると大名格とされましたから、7千石はそこに手が届きかけた水準です。同じ秀長の家中にいた藤堂高虎と比べるとよくわかります。高虎は天正8年に3,300石、天正11年に4,600石、天正13年にようやく1万石に達して大名格となり、天正15年に紀州粉河で2万石になりました。平介の事件が起きた天正16年の時点でも、高虎の2万石に対して平介は7千石ですから、同じ家中の有力家臣として並べて語れる位置にいたことになります。家中には横浜一庵の5万石、羽田正親の4万8千石という大名級もいましたが、それは家中でも抜きん出た数字です。家中の顔ぶれと石高は豊臣秀長の家臣団とはにまとめています。
ここで大事なのは、平介が古参ではなかったことです。蜂須賀正勝や前野長康のように織田家の時代から秀吉のそばにいた者とは違い、平介はもと商人で、途中から入ってきた実務の人でした。つまり家柄ではなく、船と荷を動かす腕だけで7千石まで来た人です。だからこそ秀長は、この男に紀伊の山を任せました。平介の経歴と人物像は吉川平介(平助)とはでくわしく紹介しています。
預かった金額は、7千石と釣り合っていなかった
平介が握っていたのは、熊野の材木2万余本です。これを伐り出し、筏に組んで川を下し、大坂でさばく。その代金が平介の手を通りました。7千石の年貢が実際に手元に入るのは、その何割かにすぎません。いっぽう材木2万余本の代金は、豊臣家の普請を支える規模の金です。桁がまるで違います。つまり平介は、自分の生涯の稼ぎをはるかに超える金を、年に何度も素通りさせる場所に立たされていました。熊野の木がどれほどの価値を持っていたかは熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのかで書いています。
人が金に手を出すかどうかを決めるのは、欲の深さだけではありません。手の届く金額と、自分が受け取っている報酬との差です。その差が大きいほど、そして見張る目が少ないほど、手は伸びやすくなります。平介の立場は、その両方がそろっていました。
商人あがりという出自 ─ 「売れる」ことが仕事だった
平介の出自には、信長のもとで伊勢大湊の船奉行だったという説と、長浜の商人の出だったという説が伝わります。どちらにしても、船と材木と銭を扱う技能で身を立てた人です。四国攻めでは10万の軍を海の向こうへ渡すための船を差配しました。船を集め、荷を積み、人を動かす段取りができる。武功ではなく実務で評価された人材でした。
ここに事件の芯があります。平介の値打ちは「売れること」「さばけること」そのものでした。熊野の材木を伐り出して大坂で現金に換える、という仕事は、彼の得意の真ん中です。得意だからこそ任され、得意だからこそ、売り先も相場も自分だけが知っている状態になりました。売る技能を持つ者に売らせて、売った結果を確かめる者を置かなかった。そこが穴でした。
秀長の紀伊には、まだ数える仕組みがなかった
秀長が紀伊を得たのは、紀州攻めのあとです。事件までまだ3年ほどしかありません。和歌山、湊、田辺、新宮に家臣を配し、熊野の山には平介を山奉行として置きました。できたばかりの支配で、山の奥の材木が何本あり、いくらで売れたのかを突き合わせる帳面は、まだ整っていなかったと見るべきです。秀長の紀伊統治の中身は秀長は紀伊をどう治めたのかにまとめました。
しかも熊野は、豊臣の支配に素直に従った土地ではありません。山の地侍が3年にわたって抵抗した北山一揆が起きています(北山一揆とは)。中央から人を送って帳面を合わせるどころか、現地を知る者に任せるしかない土地でした。平介に任せたのは怠慢ではなく、ほかに方法がなかったからです。そしてその「ほかに方法がない」が、そのまま穴になりました。
熊野の木は、ただの木ではなかった

平介が売った木は、余りものではありません。豊臣政権はこのころ、大坂城の普請と京の方広寺大仏殿の造営を同時に進めていました。巨大な建物を建てるには、長くて太い良材が大量に要ります。それを出せる山が紀伊の熊野でした。材木をどう集めたかという話は大坂城築城と豊臣秀長でも扱っています。
つまり熊野の材木は、秀吉の天下普請に直結する戦略物資でした。平介が勝手に売ったのは、政権の建築計画に穴をあけたことになります。それに加えて、九州攻めから先の遠征を支える資源でもありました。だから秀吉の怒りは、金額の大小の問題ではなかったわけです。処罰がなぜあれほど重くなったのかは吉川平介(平助)とはで掘っています。
本当に着服だったのか ─ 三つの見方
- 着服説……売った代金を私したという、同時代の記録に沿った読み方。奈良の僧が書き継いだ日記にそう残っており、もっとも有力です
- 事務の破綻説……売却そのものは命じられた仕事で、代金の処理と報告が滞っただけだという読み方。私腹を肥やす意図を示す史料はない、という立場です
- 見せしめ説……罪に対して罰が重すぎる。急に膨らんだ秀長の家中へ、秀吉が釘を刺すための処罰だったという読み方です
記録を残したのは奈良の僧で、その日記については多聞院日記とはでまとめています。そして三つのうちどれを採るかを考えるとき、手がかりになるのは妻子の扱いです。平介の妻子は罪に問われず、孫は京の町人として生きました。謀反や家ぐるみの不正として裁かれたなら、家族が無事で済むことはありません。実際、のちの秀次の一件では妻子まで処刑されています(秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのか)。つまりこの一件は、平介個人の不正として処理された、と読むのが筋に合います。見せしめ説を採るにしても、家までは潰さない見せしめだったことになります。
周りは気づかなかったのか
気づかれなかったのではなく、気づくのに時間がかかったと見るべきです。熊野の山から大坂の市までの流れを一人で握っていれば、外から見える数字は平介が出す報告だけになります。本数も相場も代金も、確かめる筋がもう一本なければ、報告どおりに受け取るしかありません。露見したのが天正16年で、平介が山奉行として熊野に入ってから数年が経っていたのは、そういう事情だと思われます。
そして露見したときに責めを受けたのは、平介だけではありませんでした。秀長は「天下の面目を失った」とされ、翌年の年頭の挨拶を秀吉から断られています。家臣の不正は主君の管理責任になる。この一件が兄弟のあいだに何を残したのかは秀吉と秀長は仲たがいしたのかで追いました。秀長が亡くなるのはこの3年後です。
よくある疑問
Q. 平介の所領はどれくらいでしたか。7千石は低いのですか。
A. 7千石と伝わります。低くありません。1万石を超えると大名格とされた時代で、同じ秀長家中の藤堂高虎が1万石に達したのは天正13年、2万石になったのは天正15年です。平介は家中の有力家臣の待遇を受けていました。
Q. 売った材木は何本ですか。
A. 2万余本と伝わります。大坂で売られました。
Q. いつ、どこで処罰されたのですか。
A. 天正16年12月5日、大和西大寺で処刑され、首は洛中に晒されたと伝わります。
Q. 家族はどうなりましたか。
A. 妻子は罪に問われていません。孫は武士をやめ、京の町人になったと伝わります。くわしくは吉川平介(平助)とはをご覧ください。
Q. 「平介」と「平助」はどちらが正しいのですか。
A. 史料の表記は平介、大河ドラマ『豊臣兄弟!』では平助と書かれます。同じ人物です。
まとめ
吉川平介(平助)が熊野の材木代に手を出した理由を、欲が深かったからで片づけてしまうと、肝心なところが落ちます。待遇が悪かったわけでもありません。7千石は、大名格の1万石に迫る有力家臣の扱いです。それでも手が出たのは、材木2万余本の代金という、自分の生涯の稼ぎを超える金が自分ひとりの手を通っていたからです。しかも売る技能で評価された人に売らせ、売った結果を確かめる筋をもう一本置かなかった。できたばかりの紀伊支配には、それを置く余裕がありませんでした。平介は、穴のあるところに置かれて、穴に落ちた人です。
それでも豊臣家は容赦しませんでした。熊野の木は大坂城と方広寺大仏殿を支える戦略物資で、勝手に売ることは政権の計画に穴をあけることだったからです。平介は天正16年12月5日に処罰され、責めは主君の秀長にまで及びました。秀長の人物像は豊臣秀長とはどんな人物か、秀吉に処罰された人びとの全体像は秀吉に処刑・切腹させられた人びとにまとめています。

