真田信繁はなぜ「幸村」と呼ばれるのか|安藤政信が演じる幸村の本当の名前 ─ 『難波戦記』から広まった名、九度山の「好白」と「真田左衛門佐」|ドラマ『真田十勇士』第1話

九度山の草庵で、出家して好白と名のった信繁が手紙を書くイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 真田幸村の本当の名は「信繁」です。本人の手紙や同じ時代の記録に「幸村」という名は出てこず、本人が幸村と名のった確かな証拠はありません
  • 「幸村」の名が広まったのは、信繁の死から50年あまりたった江戸時代前期の軍記『難波戦記』からとされます。その後、講談や大正時代の立川文庫を通じて、「真田幸村」が英雄の名として定着しました
  • なぜ「幸村」なのかははっきりしません。真田家の人びとが名に使った「幸」の字を取ったという見方のほか、徳川にたたった刀「村正」と結びつける俗説もあります
  • 信繁は九度山で出家して「好白」と名のり、大坂の陣では官名の「左衛門佐」で呼ばれました。同じ時代の人にとっては「真田左衛門佐」だったのです
  • ドラマ『真田十勇士』第1話では、父の昌幸は息子を「信繁」と呼び、14年後の九度山では字幕が「真田幸村」(安藤政信さん)に変わって、「いまは幸村と名のっている」という形で描かれました

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話を見て、「父の昌幸は『信繁』と呼んでいるのに、字幕は『真田幸村』なのはなぜ?」と気になった人もいるのではないでしょうか。上田合戦の回想では信繁と呼ばれていた若武者が、14年後の九度山では幸村(安藤政信さん)として登場します。実は「幸村」という名は、本人が生きていたころの記録には出てこない名前です。この記事では、真田信繁がなぜ「幸村」と呼ばれるようになったのか、その出どころと広がり方をたどります。

目次

本当の名前は「信繁」

真田幸村として知られる武将の実名は、真田信繁です。永禄10年(1567)ごろ、真田昌幸の次男として生まれました。本人が書いた手紙の署名や、同じ時代の人が残した記録に出てくるのは、いずれも「信繁」という名で、「幸村」と書かれたものは確かな史料には見つかっていません(真田幸村(信繁)とは何者か)。

「信繁」という名は、武田信玄の弟で、川中島の戦いで兄の身代わりのように討死した武田信繁にちなむといわれます。父の昌幸は若いころ信玄の近くに仕えて育ち、信繁を深く尊敬していたので、次男にその名をつけたと考えられています。通称は「源次郎(源二郎)」で、のちに豊臣家のもとで「左衛門佐」という官名を受けました(真田昌幸とは)。

呼び名 種類 使われた時期・場面
信繁(のぶしげ) 実名(諱) 生涯を通じての本名。本人の手紙の署名にも使われる
源次郎(源二郎) 通称 若いころから家族や家臣のあいだで
左衛門佐(さえもんのすけ) 官名 豊臣家のもとで任じられる。大坂の陣では「真田左衛門佐」と呼ばれた
好白(こうはく) 出家したあとの名 九度山で出家してから
幸村(ゆきむら) 後世の呼び名 江戸時代前期の軍記『難波戦記』から広まり、講談で定着

「幸村」の名はどこから出てきたのか

「幸村」の名が広く知られるきっかけになったのは、江戸時代前期の寛文年間(1661〜1673)にまとめられたとされる軍記『難波戦記』です。大坂の陣を物語ふうに描いたこの本の中で、信繁は「真田幸村」として登場し、大坂城で徳川の大軍を相手に戦う活躍が語られました。信繁が大坂夏の陣で亡くなってから、50年あまりたってからのことです。

『難波戦記』はよく読まれ、その後に書かれた多くの軍記や講談の種本になりました。講釈師たちが「真田幸村」の名で大坂の陣を語るうちに、この名前は物語の英雄の名として人びとに親しまれていきます。そして大正時代、子どもたちに大人気だった立川文庫が、幸村と猿飛佐助・霧隠才蔵ら十勇士の活躍を次々に描いたことで、「真田幸村」は誰もが知る名前になりました(真田十勇士とは)。

三光神社の真田幸村像
大阪・三光神社に立つ真田幸村の像。銅像や地名など、いまも「幸村」の名で親しまれている

なぜ「幸村」なのか ─ 名前の由来の諸説

『難波戦記』の作者がなぜ「幸村」という名を使ったのかは、書き残されていません。よく挙げられるのは、真田家の人びとが名前に使った「幸」の字との関係です。祖父の幸綱(幸隆)、父の昌幸、兄の信之も若いころは「信幸」と名のっていて、「幸」は真田家にとって大切な字でした。そこから、真田家の武将らしい名前として「幸」の字を使った「幸村」が生まれた、という見方です。

「村」の字については、はっきりした説明がありません。俗説として、徳川家にたびたび不幸をもたらしたといわれる刀「村正」にちなみ、徳川に立ち向かった信繁にふさわしい字として「村」が選ばれた、という話も語られます。ただ、これは後の人の解釈で、裏づけはありません。妖刀村正の伝説も、江戸時代に広まったものです(妖刀村正とは)。

▽ よく語られる話
信繁は九度山を出て大坂城に入るとき、徳川と戦う覚悟を示すために、自分で「幸村」と名を改めた。
▼ 史実ではこうです
大坂の陣のころの手紙や記録でも、信繁は「信繁」や「左衛門佐」として出てきます。「幸村」と署名したとされる文書も伝わりますが、後の時代に作られたものと考えられていて、本人が幸村と名のった確かな証拠はありません。「幸村」は、信繁の死後に書かれた軍記や講談から広まった名前と見るのが一般的です。

九度山で名のった「好白」

九度山に流されたあと、信繁は出家して「好白」と名のりました。武士が戦いの場を離れて世を捨てたことを示すためで、流人として暮らす身にとっては、徳川に逆らう気はないという姿勢を見せる意味もあったと考えられます。九度山で暮らした父の昌幸は、赦されないまま慶長16年(1611)に亡くなりました(真田昌幸の最期)。

九度山の草庵で、出家して好白と名のった信繁が手紙を書くイメージ(イラスト)
出家して「好白」と名のり、九度山で手紙を書く信繁(イメージ)

九度山時代の信繁が、姉の夫や兄の家臣に宛てた手紙も残っています。その中で信繁は、去年から急に老けこみ、病気がちになった、歯も抜けてひげも黒いところが少なくなった、と自分の老いを嘆いています。のちに物語の中で「幸村」として華々しく描かれる武将の、本当の姿をうかがわせる手紙です(九度山とは)。

同じ時代の人は「真田左衛門佐」と呼んでいた

慶長19年(1614)、信繁は九度山を抜け出して大坂城に入ります(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。大坂の陣のころ、敵味方の記録で信繁を指すのに使われたのは、官名の「左衛門佐」でした。夏の陣で家康の本陣に突撃した信繁の戦いぶりを、薩摩の島津家の者が「真田日本一の兵(つわもの)」とたたえた書状はよく知られていますが、そこでも名前は「真田左衛門佐」です(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

つまり、同じ時代の人にとって信繁は「真田左衛門佐」であり、「幸村」と呼ぶ人はいませんでした。「幸村」は、信繁の戦いぶりが語り継がれる中で生まれた、物語の中の名前だったのです。それでもこの名前は、江戸時代から現代まで、銅像や地名、小説やドラマを通じて生き続け、いまでは本名の信繁よりもよく知られる名前になっています。

ドラマ『真田十勇士』の「信繁」と「幸村」

ドラマ第1話では、慶長5年(1600)の上田合戦の回想と、九度山で父の昌幸が亡くなる場面で、息子は「信繁」と呼ばれていました。それが14年後の九度山の場面になると、字幕は「真田幸村」に変わり、安藤政信さんが演じる幸村が登場します。ドラマは、信繁がある時から「幸村」と名のるようになった、という形で二つの名前をつないでいるわけです。

史実では信繁が幸村と名のった記録はありませんが、十勇士の物語そのものが「真田幸村」の名とともに語り継がれてきたことを思えば、ドラマが主人公の主君を「幸村」として描くのは自然な選び方といえるでしょう。昌幸の遺志を受け継いだ息子が、物語の英雄「幸村」へと変わっていく ─ 名前の切り替わりに、そんな意味を込めたのかもしれません(真田十勇士は誰に仕えたのか)。

よくある疑問

Q. 真田幸村と真田信繁は同じ人ですか?
A. はい、同じ人です。本名は信繁で、「幸村」は江戸時代の軍記や講談から広まった呼び名です。

Q. 「幸村」の名前はいつから使われていますか?
A. 江戸時代前期の寛文年間にまとめられたとされる軍記『難波戦記』に出てくるのが、広まるきっかけになったとされています。信繁の死から50年あまりあとのことです。

Q. 信繁は自分で「幸村」と名のったのですか?
A. 本人が幸村と名のった確かな史料はありません。幸村と署名したとされる文書も伝わりますが、後の時代に作られたものと考えられています。

Q. 「好白」とは何ですか?
A. 信繁が九度山で出家したあとに名のった名前です。流人として世を捨てた身であることを示す意味があったと考えられます。

Q. ドラマで幸村を演じるのは誰ですか?
A. 安藤政信さんです。第1話では、若いころの場面では「信繁」、14年後の九度山の場面では「幸村」と呼ばれています。

まとめ

真田幸村の本当の名は信繁で、本人が「幸村」と名のった確かな記録はありません。「幸村」の名は、信繁の死から50年あまりたって書かれた『難波戦記』から広まり、講談や立川文庫を通じて英雄の名として定着しました。由来ははっきりせず、真田家の「幸」の字を使ったという見方や、村正と結びつける俗説が語られています。同じ時代の人には「真田左衛門佐」と呼ばれ、九度山では「好白」と名のった信繁が、後世の物語の中で「幸村」として生まれ変わった ─ ドラマの字幕の切り替わりには、そんな歴史が隠れています。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

▶ 豊臣秀長 関連記事 ─ 大河『豊臣兄弟!』とあわせて読みたい
大河ドラマの回ごとの史実解説は 大河『豊臣兄弟!』特集ページ にまとめています。
  • URLをコピーしました!
目次