九度山の真田父子は誰に見張られていたのか|橋本じゅんが演じる首藤景明と「生かさぬよう殺さぬよう」 ─ 監視役の浅野家は米を送る側でもあった|ドラマ『真田十勇士』第1話

九度山の真田屋敷の門前に立つ見張りの武士と、米俵を運ぶ村人のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 九度山の真田父子を見張っていたのは、紀伊国を治めていた浅野家です。ドラマで橋本じゅんさんが演じる徳川方の監視役・首藤景明は、物語のために作られた人物と考えられます
  • 浅野家は見張り役であると同時に、真田父子に毎年米を送って暮らしを支える側でもありました。浅野家と豊臣家が近い間柄だったことも背景にあります
  • 「生かさぬよう殺さぬよう」は家康の言葉として知られますが、もとは年貢を納める百姓の扱いについて語られたもので、江戸時代の中ごろ以降の本に出てくる言い伝えです。家康が本当に言ったかどうかは確かめられません
  • 流人とはいえ、九度山の真田父子は牢に入れられていたわけではなく、屋敷を構えて家族や家臣と暮らし、近くの村や高野山の寺と行き来することもできました
  • ドラマ第1話では、首藤が真田家の米を来月から5割減らすと告げ、「生かさぬよう殺さぬよう」は大御所様の言葉だと言い放つ場面が描かれました

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、九度山で暮らす幸村(安藤政信さん)のもとに、徳川方の監視役・首藤景明(橋本じゅんさん)が現れました。首藤は村人をいじめ、真田家に渡す米を来月から5割に減らすと通告し、「生かさぬよう殺さぬよう」というのは大御所様、つまり家康のお言葉だと言い放ちます。九度山の真田父子は、本当にこのように徳川の役人に見張られ、締めつけられていたのでしょうか。この記事では、九度山の監視の実際と、「生かさぬよう殺さぬよう」という言葉の出どころをたどります。

目次

九度山の真田父子を見張っていたのは誰か

関ヶ原の戦いのあと、真田昌幸と信繁は紀伊国の九度山に流されました(真田昌幸と幸村(信繁)はなぜ九度山に流されたのか)。九度山は高野山のふもとにある村で、当時の紀伊国は、関ヶ原で徳川方として戦った浅野幸長が治めていました。流人を預かって見張る役目は、その土地の大名に任されるのがふつうで、九度山の真田父子についても、浅野家が監視の責任を負っていました。

つまり、九度山に徳川家から直接役人が送り込まれていたわけではなく、見張っていたのは紀伊の大名・浅野家とその家臣、そして浅野家の指示を受けた周りの村々でした。ドラマの首藤景明のような「徳川方の監視役」という名前の人物は、確かな史料には出てきません。首藤は、九度山の真田家を締めつける徳川の力を目に見える形にするために作られた人物と考えるのがよいでしょう。

九度山の位置図
九度山は高野山のふもと、紀の川のほとりにある。紀伊を治める浅野家の領内だった(略図)

見張り役の浅野家は、真田家を支える側でもあった

浅野家と真田家の関係は、ただの見張る側と見張られる側ではありませんでした。浅野家の記録によると、浅野幸長は九度山の真田父子に毎年米五十石を送っていたとされます。幸長の父・浅野長政は秀吉の妻・寧々の義理の弟にあたり、浅野家はもともと豊臣家とたいへん近い家でした。関ヶ原では徳川方についたものの、豊臣恩顧の大名として、敗れた側の真田父子に情けをかけたと見ることもできます。

九度山の真田屋敷の門前に立つ見張りの武士と、米俵を運ぶ村人のイメージ(イラスト)
九度山の真田屋敷と見張りの武士、米を運ぶ村人たち(イメージ)

真田父子の暮らしを支えていたのは、浅野家だけではありません。松代の信之からの仕送り、信濃の縁者や旧臣からの届け物、真田家と古くからつながりのあった高野山の蓮華定院の助けもありました。それでも一族と家臣を合わせると数十人の暮らしで、昌幸や信繁が国元にお金や品物を頼む手紙がいくつも残っています。暮らしが苦しかったのは確かですが、ドラマのように見張り役が米を半分に減らして締めつけた、という記録はありません(九度山とは)。

ドラマ『真田十勇士』 史実
見張っていたのは 徳川方の監視役・首藤景明 紀伊を治めていた浅野家とその家臣、周りの村々
真田家への米 首藤が来月から5割減らすと通告 浅野家が毎年米五十石を送っていたとされる。信之の仕送りもあった
村人との関係 首藤が村人をいじめ、幸村が村人に銭を分ける 村人と親しく交わった言い伝えが多く残る。脱出のときは村人を宴に招いたとも
「生かさぬよう殺さぬよう」 大御所(家康)の言葉として首藤が口にする 百姓の年貢の取り方について、家康が言ったと後世の本に伝わる言葉

流人の暮らし ─ どこまで自由だったのか

九度山の真田父子は、牢に閉じこめられていたわけではありません。九度山の村に屋敷を構え、妻子や家臣とともに暮らしていました。屋敷のまわりでは比較的自由に過ごすことができ、近くの村や高野山の寺と行き来したり、客を迎えたりすることもあったようです。信繁の子どもたちの多くはこの九度山で生まれています(真田大助(幸昌)とは)。

その一方で、九度山を離れて遠くへ行くことは許されませんでした。昌幸は赦されて信濃へ帰る日を待ち続けましたが、その願いはかなわず、慶長16年(1611)に九度山で亡くなります(真田昌幸の最期)。自由に暮らせるようでいて、決して外へは出られない。浅野家の見張りは、そうした目に見えない囲いのようなものだったといえます。

▽ よく語られる話
九度山の真田父子は、徳川の役人に厳しく見張られ、屋敷から一歩も出られない幽閉の暮らしを送っていた。
▼ 史実ではこうです
見張りの責任を負っていたのは紀伊の浅野家で、徳川から役人が送り込まれていたわけではありません。真田父子は屋敷で家族や家臣と暮らし、周りの村や高野山の寺とも行き来していました。浅野家は毎年米を送って暮らしを支えてもいます。ただし九度山の外へ出ることは許されず、赦されないまま十四年近くを過ごしたことに変わりはありません。

「生かさぬよう殺さぬよう」は家康の言葉なのか

ドラマで首藤が口にした「生かさぬよう殺さぬよう」は、家康の言葉としてよく知られています。ただ、もとは真田家のような流人ではなく、年貢を納める百姓をどう治めるかについて語られた言葉です。江戸時代の中ごろ以降にまとめられた『昇平夜話』などの本に、家康が「郷村の百姓どもは、死なぬように、生きぬようにと心得て年貢を取りたてよ」という意味のことを言ったと記されていて、これが「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」という形で広まりました。

似た考え方は、家康の側近・本多正信の著とされる『本佐録』にも見え、そこでは「百姓は財の余らぬように、不足なきように治めるのが道である」と書かれています。もっとも『本佐録』も、実際には正信本人ではなく後の人が書いたものと考えられています。どちらも家康や正信の時代から長くたってから書かれた本で、家康が本当にこの言葉を口にしたかどうかは確かめられません。百姓に余分な富を持たせず、かといって暮らしが立たなくなるほどには取りたてない、という江戸幕府の年貢の考え方を、家康の言葉の形でまとめた言い伝えと見るのがよいでしょう(本多正信はなぜ家康の右腕になれたのか)。

▽ よく語られる話
家康は「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」と言い、農民から年貢をしぼり取る政治を行った。
▼ 史実ではこうです
この言葉が出てくるのは、家康の死から百年以上たってまとめられた『昇平夜話』などの本で、家康の同時代の記録には見えません。江戸幕府の年貢の考え方を、後の人が家康の言葉としてまとめたものと考えられます。ドラマはこの言葉を、九度山の真田家を締めつける徳川の姿勢を表す台詞として使っています。

信繁が九度山を出たとき、監視はどうなっていたのか

慶長19年(1614)、方広寺の鐘銘をめぐって徳川と豊臣の仲が決裂すると、豊臣家は全国の浪人に声をかけ、九度山の信繁にも誘いが届きます(方広寺鐘銘事件とは)。このとき紀伊の浅野家は、幸長が前年に亡くなって弟の長晟が跡を継いでいました。長晟は徳川方として大坂の陣に加わる立場で、九度山の信繁が大坂へ向かわないよう、周りの村々に見張りを命じていたと伝わります。

それでも信繁は九度山を抜け出しました。伝わる話では、近くの村の人びとを招いて宴を開き、皆が酔いつぶれたすきに一族や家臣を連れて村を出たとされます。九度山の周りの地侍たちの中には、信繁とともに大坂へ向かった者もいました。見張りを命じられていた村人たちが、長年ともに暮らした信繁を本気で止めようとしなかった、と見ることもできるかもしれません(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。

ドラマ『真田十勇士』の首藤景明

ドラマ第1話の首藤景明は、九度山の村人をいじめ、真田家の米を減らすと告げる、いかにも憎まれ役の監視役として登場しました。これに対して幸村は、十勇士が内職で作った真田紐をお国が売り歩いて得た銭を、村人たちに分け与えています(真田紐とは)。十勇士は首藤を討とうと密談しますが、幸村は「どうしてもあと一つ足りない」と動きませんでした。

史実の九度山では、見張り役の浅野家が真田家を支える側でもあり、首藤のような監視役がいたわけではありません。それでも、徳川の目が光る中で流人として暮らし、村人とともに生きた信繁の姿は、言い伝えの中の九度山と重なります。首藤が真田家と村人にどこまでつらく当たり、十勇士がどう立ち向かうのかが、九度山脱出へ向かう物語の見どころの一つになりそうです(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 九度山の真田父子を監視していたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。はじめは浅野幸長、幸長が慶長18年(1613)に亡くなったあとは弟の長晟が、真田父子を見張る責任を負っていました。

Q. 首藤景明は実在の人物ですか?
A. 確かな史料には出てこない人物で、ドラマのために作られた役と考えられます。橋本じゅんさんが演じています。

Q. 「生かさぬよう殺さぬよう」は誰の言葉ですか?
A. 家康の言葉として知られていますが、出てくるのは江戸時代の中ごろ以降にまとめられた『昇平夜話』などの本で、百姓の年貢の取り方について語られたものです。家康が本当に言ったかどうかは確かめられません。

Q. 九度山の真田父子は幽閉されていたのですか?
A. 牢に入れられていたわけではなく、屋敷を構えて家族や家臣と暮らしていました。周りの村や高野山の寺とも行き来できましたが、九度山を離れて遠くへ行くことは許されませんでした。

Q. 浅野家はなぜ真田家に米を送っていたのですか?
A. はっきりした理由は書き残されていませんが、浅野家は秀吉の妻・寧々の実家筋で豊臣家と近い家でした。預かった流人の暮らしを支えるのも、預かる大名の務めの一つだったと考えられます。

まとめ

九度山の真田父子を見張っていたのは、徳川から送り込まれた役人ではなく、紀伊を治めていた浅野家でした。浅野家は見張り役であると同時に、毎年米を送って真田家の暮らしを支える側でもあり、真田父子は九度山の村で家族や家臣とともに暮らしていました。「生かさぬよう殺さぬよう」は百姓の年貢について家康が言ったと後世に伝わる言葉で、真田家に向けられたものではありません。ドラマの首藤景明は、こうした史実をふまえながら、九度山を締めつける徳川の力を一人の人物に託した役といえるでしょう。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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