真田昌幸の最期|九度山で迎えた65歳の死と、信繁に託した「遺言」の伝承 ─ 赦されなかった11年、密葬と本多正信の返事|ドラマ『真田十勇士』第1話

九度山の草庵で、病床の真田昌幸が信繁の手を握って語りかけるイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 真田昌幸は、関ヶ原の戦いのあと流された紀伊の九度山で、慶長16年(1611)6月4日に65歳で亡くなりました。赦されて上田へ帰る日を最後まで待ちましたが、かないませんでした
  • 晩年の昌幸は病がちで、長男の信之に宛てた手紙には、年を取って気力が衰え、床に伏すことが増えた様子がつづられています。暮らしの費用も信之の仕送りに頼っていました
  • 葬儀は九度山で身内と家臣だけでひっそり行われました。信之は弔いを出したいと本多正信に相談しましたが、「天下にはばかる人なので控えたほうがよい」と止められています
  • 昌幸が死の床で信繁に「大坂で戦になったらこう戦え」と策を授けた、という遺言の話が有名ですが、これは江戸時代の軍記や家伝に出てくる話で、確かな史料では確かめられません
  • ドラマ『真田十勇士』第1話では、昌幸が臨終の床で「この無念、お前が晴らしてくれ」と信繁に託し、これが14年後の幸村(安藤政信さん)の物語につながります

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、関ヶ原のあと九度山に流された真田昌幸が、臨終の床で息子の信繁に「この無念、お前が晴らしてくれ」と言い残す場面が描かれました。上田城で徳川の大軍を二度も退けた名将は、流人として山里で最期を迎えたことになります。では、史実の昌幸はどのように亡くなり、どんな言葉を残したと伝わるのでしょうか。この記事では、九度山での昌幸の晩年と死、葬儀のゆくえ、そして有名な「遺言」の伝承を順にたどります。

目次

真田昌幸の最期 ─ 慶長16年、九度山で65歳

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れたあと、上田城に籠もって徳川秀忠の大軍を足止めした昌幸と次男の信繁は、本来なら死罪になってもおかしくない立場でした。徳川方についた長男の信之と、その舅の本多忠勝が命乞いをしたこともあって死罪はまぬがれ、紀伊国の九度山に流されます(真田昌幸と幸村(信繁)はなぜ命を救われたのか)。

九度山での暮らしは十年あまり続きました。そして慶長16年(1611)6月4日、昌幸は九度山の屋敷で病のために亡くなります。数えで65歳、流されてから11年目のことでした。いつか赦されて故郷の信濃に帰ることを最後まで望んでいましたが、その願いはかないませんでした。

九度山の草庵で、病床の真田昌幸が信繁の手を握って語りかけるイメージ(イラスト)
九度山で最期を迎える昌幸と、それを看取る信繁(イメージ)
年 昌幸の歩み
天文16年(1547) 真田幸綱(幸隆)の三男として生まれる
天正13年(1585) 第一次上田合戦で徳川軍を退ける
慶長5年(1600) 犬伏で信之と別れ、第二次上田合戦で秀忠の大軍を足止め。関ヶ原のあと九度山へ
慶長5年〜16年 九度山で信繁や家臣と暮らす。赦免を願い続ける
慶長16年(1611)6月4日 九度山で病死。65歳
慶長19年(1614) 信繁が九度山を出て大坂城に入る

晩年の昌幸 ─ 赦免を待ち続けた11年

九度山に移った当初、昌幸は数年のうちに赦されると考えていたようです。家康のそばで力を持っていた本多正信に、信之を通じて赦しを願い出たことも伝わります。けれども家康は、二度も徳川を手こずらせた昌幸を許しませんでした。上田城も関ヶ原のあと徳川方によって壊され、昌幸が帰る城そのものがなくなっていました(上田城)。

九度山の暮らしは楽なものではありませんでした。領地を失った流人の身で、生活の費用は信之からの仕送りや、紀伊を治める浅野家からのわずかな援助に頼るしかありません。昌幸が信之に宛てた手紙には、たびたびお金の工面を頼む言葉が見えます。晩年の手紙では、この一、二年は年を取って気力がすっかり衰え、病がちで床に伏すことが多くなったと書き送っていて、名将の面影が少しずつ薄れていく様子がうかがえます(九度山とは)。

真田昌幸が築いた上田城
昌幸が築き、二度にわたって徳川軍を退けた上田城(長野県上田市)。昌幸はついにこの地へ帰れなかった

ひっそり行われた葬儀と、本多正信の返事

かつての大名の死でありながら、昌幸の葬儀は九度山で身内と家臣だけによって、ひっそりと営まれました。遺体は荼毘に付され、遺骨は屋敷の敷地に葬られたと伝わります。いまの九度山の真田庵(善名称院)には、昌幸の墓とされる石塔が残っています。

父の死を知った信之は、真田家としてきちんと弔いを出したいと考え、本多正信に相談しました。ところが正信の答えは、お気の毒ではあるが、昌幸は天下にはばかる人なので、弔いは赦しが出てからにしたほうがよい、というものでした。徳川に逆らったまま赦されずに亡くなった父のために、徳川の大名である信之が公に葬儀を出すことは許されなかったのです。信之は葬儀を断念しました(真田信之のその後)。

昌幸の死をきっかけに、九度山で仕えていた家臣たちの多くは、一周忌のころに信濃へ帰り、信之に仕えることになりました。遺骨の一部は家臣の手で故郷の真田郷にある長谷寺に納められたとも伝わり、長谷寺には昌幸夫妻の墓とされる石塔があります。九度山に残ったのは、信繁とその妻子、高梨内記などわずかな家臣だけでした。

昌幸の「遺言」はどう伝わっているのか

昌幸の最期でよく知られているのが、死の床で信繁に授けたという「遺言」の話です。江戸時代にまとめられた真田家の家伝や軍記によると、昌幸は「三年のうちに徳川と豊臣のあいだで戦が起きる。そのときは大坂に入って、城に籠もるだけでなく、打って出て徳川の軍を迎え撃て」と、細かな策を信繁に語ったとされます。伝える本によって策の中身は少しずつ違い、近江の瀬田や宇治あたりまで出て敵を食い止める策だったとするものもあります。

この話にはもう一つ、有名な続きがあります。昌幸は策を語ったあと、「わしなら名が知られているから、この策は聞き入れられるだろう。だが、お前はまだ世に名が知られていないから、同じことを言っても用いられまい」と嘆いた、というのです。実際に大坂の陣で、信繁は城を出て戦う策を唱えましたが退けられ、籠城と決まりました。遺言の話は、この結末と見事に重なるように語られています。

九度山の位置図
昌幸が11年を過ごし、最期を迎えた九度山の位置(略図)
▽ よく語られる話
昌幸は死の床で、大坂の陣を予言し、信繁に必勝の策を授けた。信繁が大坂で活躍できたのは、父の遺言のおかげだった。
▼ 史実ではこうです
遺言の話が出てくるのは、昌幸の死から長い年月がたってから書かれた家伝や軍記で、同じ時代の手紙や記録からは確かめられません。大坂の陣の結末を知っている後世の人が、昌幸の知略と信繁の無念を一つの物語にまとめた面があると考えられます。確かな史料からわかるのは、晩年の昌幸が病に苦しみ、赦しを待ちながら亡くなったことと、信繁がその3年後に大坂城へ入ったことです。

昌幸の死は信繁をどう変えたのか

父の死によって、信繁は九度山で真田家を背負う立場になりました。昌幸が生きていたころは、大名だった父のもとに家臣が仕え、信之からの仕送りも父を通じて届いていました。昌幸の死後は家臣の多くが去り、信繁は残ったわずかな家臣と妻子を抱えて、さらに苦しい暮らしを送ることになります。このころ信繁は出家して「好白」と名のり、兄の信之やその家臣に宛てた手紙では、年を取って歯も抜け、ひげも白くなったと自分の老いを嘆いています。

それでも、上田城で父とともに徳川を退けた経験は、信繁の中に生き続けていました。慶長19年(1614)、方広寺の鐘銘をめぐって徳川と豊臣の仲が決裂すると、豊臣家は全国の浪人に声をかけ、信繁にも誘いが届きます(方広寺鐘銘事件とは)。信繁は九度山を抜け出して大坂城に入り、冬の陣では出城の真田丸で徳川軍を打ち破りました(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。父が果たせなかった徳川との最後の戦いに、息子が挑んだことになります。

ドラマ『真田十勇士』で描かれた昌幸の最期

ドラマ第1話では、上田合戦の回想のあと、九度山に蟄居した昌幸が臨終の床で信繁に「この無念、お前が晴らしてくれ」と託す場面が描かれました。劇中の昌幸は息子を「信繁」と呼び、そこから物語は14年後へ飛んで、「幸村」と名のる安藤政信さんの幸村が登場します。幸村が「どうしてもあと一つ足りない」と九度山を動かずにいたのも、父から託された無念を晴らすには、まだ力が足りないと考えていたからかもしれません。

史実では、昌幸が亡くなったのは慶長16年で、信繁が大坂城に入る3年前です。ドラマの「14年後」は関ヶ原から数えた年月で、昌幸の死からは3年ほどということになります。遺言の言葉そのものはドラマの創作ですが、徳川に赦されないまま九度山で亡くなった昌幸の無念を、信繁が大坂の陣で晴らそうとしたという筋立ては、昔から語られてきた真田の物語をふまえたものといえます(真田昌幸とは|「表裏比興の者」と呼ばれた知将)。

よくある疑問

Q. 真田昌幸はいつ、どこで亡くなりましたか?
A. 慶長16年(1611)6月4日、流されていた紀伊国の九度山(いまの和歌山県九度山町)で病のために亡くなりました。数えで65歳でした。

Q. 昌幸の死因は何ですか?
A. 病死です。どんな病だったかははっきりしませんが、晩年の手紙には、年を取って気力が衰え、病がちで床に伏すことが増えたと書かれています。

Q. 真田昌幸の墓はどこにありますか?
A. 九度山町の真田庵(善名称院)に、昌幸の墓とされる石塔があります。また、故郷の長野県上田市真田町の長谷寺にも、昌幸夫妻の墓とされる石塔が残っています。

Q. 昌幸が信繁に残した遺言は本当ですか?
A. 大坂の陣での戦い方を授けたという遺言の話は、江戸時代の家伝や軍記に出てくるもので、同じ時代の史料では確かめられません。後世にまとめられた物語と考えるのがよいでしょう。

Q. 昌幸の葬儀はどうなりましたか?
A. 九度山で身内と家臣だけでひっそりと行われました。信之は公に弔いを出したいと本多正信に相談しましたが、赦されていない人なので控えるよう言われ、断念しています。

まとめ

真田昌幸は、関ヶ原のあと流された九度山で、赦しを待ちながら慶長16年(1611)に65歳で亡くなりました。病と貧しさに苦しんだ晩年で、葬儀さえ公に出すことを許されなかった最期は、上田城で徳川を二度退けた名将の終わりとしてはあまりにも寂しいものでした。信繁に策を授けたという遺言は後世の物語ですが、父の死から3年後、信繁は九度山を出て大坂城に入り、徳川との最後の戦いに挑みます。ドラマが描いた「この無念、お前が晴らしてくれ」という言葉は、そうした真田父子の物語を一言にまとめたものといえるでしょう。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

▶ 豊臣秀長 関連記事 ─ 大河『豊臣兄弟!』とあわせて読みたい
大河ドラマの回ごとの史実解説は 大河『豊臣兄弟!』特集ページ にまとめています。
  • URLをコピーしました!
目次