方広寺鐘銘事件とは|佐野史郎が演じる金地院崇伝は本当に仕掛け人だったのか ─ 「国家安康」の鐘から片桐且元の退去、大坂の陣まで|ドラマ『真田十勇士』第1話

駿府で鐘銘の写しを示して片桐且元を問いただす崇伝のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 方広寺鐘銘事件は、慶長19年(1614)、豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を、徳川家康が問題にした事件です。ここから大坂冬の陣へと一気に進みました
  • 家康の側で銘文の調べにあたったのが、南禅寺金地院の僧・以心崇伝と、儒学者の林羅山でした。崇伝は家康の政治顧問として外交文書や武家諸法度の起草も担い、「黒衣の宰相」と呼ばれた人物です
  • 「崇伝がすべてを仕組んだ」とよく語られますが、事件を主導したのは家康自身で、崇伝は本多正純とともに豊臣方の言い分を聞く実務役だった、と見るのが一般的です。銘文を書いた清韓が家康の名をわざと詠み込んでいたこともわかっています
  • ドラマ『真田十勇士』第1話では、佐野史郎さんが演じる崇伝が「方広寺の件」の知恵を出した家康の参謀として登場し、豊臣の使いを装った罠で幸村を誘い出そうとします

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、九度山の幸村(安藤政信さん)のもとに豊臣家の使いが訪れ、方広寺の鐘の銘をめぐって大御所の家康が怒っていると伝え、大坂へ来てほしいと頼む場面がありました。その使いの正体は徳川方の人間で、家康(内藤剛志さん)のそばでこの「方広寺の件」の知恵を授けていたのが、佐野史郎さんが演じる金地院崇伝です。使いが罠だったのはドラマの創作ですが、方広寺の鐘をめぐる騒ぎそのものは史実で、これが豊臣家を滅ぼす大坂の陣の入口になりました。この記事では、鐘銘事件で何が起きたのかと、崇伝という人物が本当はどこまで関わっていたのかを順にたどります。

目次

方広寺鐘銘事件とは

京都・東山の方広寺は、豊臣秀吉が高さ約十九メートルの大仏を納めるために建てた寺です。秀吉の大仏は地震で壊れ、息子の秀頼が建て直しにかかったものの、慶長7年(1602)には鋳造中の火事で大仏殿まで焼けてしまいます。秀頼は片桐且元を奉行に立てて再建を続け、慶長17年(1612)ごろに大仏殿を完成させました(方広寺の大仏とは:秀吉の京の大仏と、「国家安康」の鐘が招いた大坂の陣)。

造営中の方広寺大仏殿と大仏のイメージ(イラスト)
秀吉が始め、秀頼が再建した方広寺の大仏殿(イメージ)

慶長19年(1614)4月には大仏殿の梵鐘も鋳上がり、8月3日に大仏の開眼供養と大仏殿の落慶供養を行う段取りが、家康の了承のもとで進んでいました。ところが7月に入ると、駿府の家康から供養を延期せよという命令が届きます。棟札に幕府の大工頭・中井正清の名がないことなどもとがめられましたが、いちばん問題にされたのが鐘の銘文でした。

時期(慶長19年) できごと
4月 方広寺大仏殿の梵鐘が完成。銘文は南禅寺の文英清韓が作る
7月 家康が8月3日の開眼供養・堂供養の延期を命じる。鐘銘と棟札が問題に
8月 片桐且元が駿府へ弁明に向かうが、家康には会えず、本多正純と崇伝が応対する。淀殿が送った大蔵卿局らは家康に会えた
9月 且元が大坂へ戻り、事態を収める案を示すが、豊臣家中で裏切りを疑われる
10月1日 且元が大坂城を退去。家康は諸大名に出陣を命じる
11月〜12月 大坂冬の陣

「国家安康」「君臣豊楽」の何が問題だったのか

鐘の銘文は、南禅寺の長老・文英清韓が作ったものです。長い文章の中に「国家安康」「君臣豊楽」という句があり、家康の側はこれを、家康の名の「家」と「康」を切り離して首と胴を分け、豊臣を君として楽しむという呪いの意味が込められていると受け取りました。当時は、目上の人の名(諱)をむやみに書くこと自体が無礼とされていましたから、名を二つに分けて詠み込むのはなおさら許されない、という理屈です。

儒学者の林羅山はさらに踏み込み、銘文の「右僕射源朝臣」という言葉まで「源朝臣(家康)を射る」と読めると唱えたと伝わります。家康は京都五山の僧たちにも意見を求め、多くの僧が「家康の名を詠み込んだのは礼を欠く」と答えました。こうして、もともとはおめでたい文句だったはずの銘文が、豊臣家が徳川を呪った証拠として扱われていきます。

▽ よく語られる話
「国家安康」はたまたま家康の名に似ていただけで、徳川方が無理やり言いがかりをつけた。
▼ 史実ではこうです
銘文を作った清韓は取り調べに対して、家康の名をわざと句の中に隠して詠み込み、祝う気持ちを込めたのだと答えています。偶然似ていたのではなく、意図して入れた言葉でした。呪うつもりはなかったとしても、目上の人の名を断りなく分けて使ったことは当時の作法に外れていて、そこを突かれたというのが近年の見方です。もっとも、これを開戦にまでつなげたのは家康の政治的な判断で、言いがかりの面があったことも否定できません。

以心崇伝(金地院崇伝)とはどんな人物か

崇伝は永禄12年(1569)の生まれで、室町幕府の将軍に仕えた一色氏の家に生まれました。幼いころに幕府が滅んで父を失い、京都の南禅寺で出家します。慶長10年(1605)には三十代の若さで五山の頂点に立つ南禅寺の住持になり、南禅寺の塔頭・金地院に住んだことから「金地院崇伝」と呼ばれます。

慶長13年(1608)ごろから駿府の家康に招かれ、はじめは外国に送る手紙など外交文書の作成を任されました。やがて寺社の取り締まりや法令づくりにも関わるようになり、慶長18年(1613)のキリスト教を禁じる「伴天連追放之文」、大坂の陣のあとの元和元年(1615)に出された武家諸法度・禁中並公家諸法度・寺院の法度など、江戸幕府の土台になる決まりの起草に携わっています。家康が駿府城で大御所として政治を動かしていたころ、そのそばにいた知恵袋の一人でした(駿府城跡:家康が三度暮らした城と、隠居城と呼ばれながら江戸と並んだ大御所の政庁)。

僧でありながら政治の中枢にいたことから、崇伝は「黒衣の宰相」と呼ばれました。一方で、強引なやり方への反発も大きく、のちの紫衣事件で沢庵らに厳しい処分を求めたこともあって評判はよくありません。「大欲山気根院僭上寺悪国師」という悪口のようなあだ名まで残っています。寛永3年(1626)に円照本光国師の号を受け、寛永10年(1633)に65歳で亡くなりました。崇伝が書き残した日記『本光国師日記』は、鐘銘事件を含む当時の幕府の動きを知る大切な史料になっています。

鐘銘事件で崇伝は何をしたのか

鐘銘事件のとき、崇伝は家康の側近の本多正純とともに、豊臣方の言い分を聞く役にあたりました。弁明のために駿府へ来た片桐且元は家康に会わせてもらえず、正純と崇伝から銘文や棟札の件を問いただされます。その一方で、淀殿が別に送った乳母の大蔵卿局らは家康に会うことができ、家康は機嫌よく彼女たちを迎えたといわれます。

駿府で鐘銘の写しを示して片桐且元を問いただす崇伝のイメージ(イラスト)
駿府で鐘銘をめぐって豊臣方を問いただす崇伝と本多正純(イメージ)

且元は大坂へ戻ると、徳川との仲を修めるには、秀頼が江戸へ参勤するか、淀殿が人質として江戸に下るか、豊臣家が大坂城を出てほかの国へ移るか、いずれかを選ぶしかないと伝えました。ところが大蔵卿局らは「家康は穏やかだった」と報告していたため、豊臣家の中では、厳しい条件を持ち帰った且元が徳川に通じているのではと疑われてしまいます。身の危険を感じた且元は慶長19年10月1日に大坂城を去り、これを豊臣方が徳川と手を切った合図と受け取った家康は、諸大名に大坂への出陣を命じました(淀殿はなぜ豊臣家を仕切れたのか:家老のいない豊臣家、片桐且元の退去、大野治長と女房衆)。

二人の使いを別々に扱い、豊臣家の中に疑いの種をまいたやり方は、あとから見るとよくできた揺さぶりでした。これを崇伝の策とする説明もありますが、史料からわかるのは、崇伝が正純とともに交渉の窓口に立ち、家康の意向を伝えていたところまでです。誰が筋書きを描いたのかははっきりせず、最後に決めていたのは家康だった、と考えるのが自然でしょう。銘文を書いた清韓は南禅寺を追われ、駿府に身柄を留められたと伝わります。同じ南禅寺の僧でありながら、一方は家康の知恵袋、一方は事件の罪を負う側にまわったことになります。

▽ よく語られる話
鐘銘に言いがかりをつけて豊臣家を追い詰める策は、黒衣の宰相・崇伝がひとりで考え出した。
▼ 史実ではこうです
崇伝は本多正純とともに豊臣方の取り調べと交渉にあたり、五山の僧の意見をまとめる役も務めましたが、事件の筋書きを崇伝ひとりが描いたことを示す史料はありません。「家と康を分けた呪い」というもっとも強い読み方を唱えたのは林羅山だとされ、供養の延期を命じて豊臣家を追い込んだのは家康自身の判断でした。崇伝の悪名の高さが、のちに「すべて崇伝の仕業」という語られ方を生んだ面があります。

鐘銘事件はなぜ大坂の陣につながったのか

鐘銘事件は、それだけで戦が起きたというより、徳川と豊臣のあいだにたまっていたものが噴き出すきっかけでした。家康はすでに慶長10年(1605)に将軍職を秀忠に譲り、天下が豊臣家に戻らないことをはっきり示していました。それでも大坂城の秀頼は、秀吉の遺した莫大な金銀と、亡き秀吉を慕う大名や浪人を抱え、徳川にとっては目の上の存在であり続けます。七十歳を超えた家康には、自分が生きているうちに豊臣家の問題を片づけておきたいという思いがあったと見られています。

且元の退去を機に、豊臣方は全国の浪人を大坂城に集め始めます。その呼びかけに応じた一人が、九度山で十四年を過ごしていた真田信繁(幸村)でした(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。鐘の銘文から始まった騒ぎが、九度山の流人を大坂の戦場へと呼び戻すことになったのです。冬の陣・夏の陣の流れは大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説で書いています。

ドラマ『真田十勇士』で佐野史郎が演じる崇伝

ドラマ第1話の崇伝は、家康のそばに控える参謀として描かれました。家康が「方広寺の件」の知恵は崇伝から出たものだと語る場面があり、豊臣の使いを装った徳川方の男を九度山に送り込んで幸村を誘い出そうとする罠も、徳川の側で仕組まれたものでした。さらに崇伝は、徳川に仕える忍びたちを滝から落として鍛える場面にも登場し、佐助の昔の仲間がこの修行で命を落としています。

僧侶でありながら忍びを鍛える崇伝はドラマならではの姿で、史実の崇伝が忍びを使っていたという記録はありません。それでも、家康の耳元で知恵を授ける「黒衣の宰相」という人物像そのものは、史実の崇伝のイメージをふまえたものといえます。幸村を罠にかけようとした崇伝と家康の前に、これから十勇士がどう立ちはだかるのかが楽しみです(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 方広寺鐘銘事件とは何ですか?
A. 慶長19年(1614)、豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の鐘の銘文にある「国家安康」「君臣豊楽」を、徳川家康が自分を呪うものだと問題にした事件です。豊臣方の弁明はうまくいかず、大坂冬の陣のきっかけになりました。

Q. 「国家安康」の鐘はいまも残っていますか?
A. はい。京都市東山区の方広寺の鐘楼に吊られていて、問題になった「国家安康」「君臣豊楽」の文字も見ることができます。

Q. 金地院崇伝は何をした人ですか?
A. 南禅寺の僧で、徳川家康の政治顧問として外交文書の作成や、武家諸法度・禁中並公家諸法度などの起草に関わりました。「黒衣の宰相」と呼ばれます。鐘銘事件では本多正純とともに豊臣方の取り調べにあたりました。

Q. 鐘銘事件を仕組んだのは崇伝ですか?
A. 崇伝が取り調べと交渉の中心にいたのは確かですが、事件の筋書きを崇伝ひとりが描いたと示す史料はありません。家と康を分けたという読み方を強く唱えたのは林羅山とされ、開戦へと進めたのは家康自身の判断でした。

Q. ドラマで金地院崇伝を演じるのは誰ですか?
A. 佐野史郎さんです。家康を演じるのは内藤剛志さんです。

まとめ

方広寺鐘銘事件は、秀頼が再建した大仏殿の鐘の「国家安康」「君臣豊楽」を家康が問題にしたことで始まり、片桐且元の退去を経て大坂冬の陣へとつながりました。銘文を書いた清韓が家康の名を意図して詠み込んでいたこと、そこを礼を欠くととがめられたことは事実ですが、それを戦の口実にまで広げたのは家康の判断です。崇伝はその家康のそばで交渉の窓口に立った「黒衣の宰相」で、ドラマでは幸村を罠にかける参謀として描かれています。鐘の文字ひとつから始まった騒ぎが、九度山の幸村を最後の戦いへと向かわせることになりました。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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